文字を持たなかった昭和 二百六十三(懐炉)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)が冬に着ていたものについて書いた。その続きで触れた、姑のハル(祖母)が使っていたカイロ、いや懐炉について書こう。

 ハルが使っていた当時の懐炉は、読んで字のごとく懐に入れる「炉」だった。火を点けた燃料を防燃素材でできた容器に入れて懐に入れておくのだ。容器は長さ10数センチ、幅7、8センチ、厚さは3センチくらいの金属製で、両開き。内側の面には細かい凹凸というか切れ目のようなものが入っていて、中央に直径1.5センチくらいの縦のくぼみがあり、ここに燃料をセットする設計だった。両に開いた本体の、内側と外側(ふた)の中間は、断熱効果を高められるよう空洞に近い構造だったのではないだろうか。

 燃料は、束にした線香を薄い紙でくるんだような見た目で――つまり中が何でできているのかは見えない――、紙の上部をキャンディーの包み紙のようにきゅっとひねってあった。この「きゅっとひねった」部分に点火するのだ。火は徐々に本体に移っていくのだが、着火を確認したら専用の容器に入れて蓋をする。そうしないとどんどん燃えてなくなってしまう(らしかった)。

 蓋をしたら専用のビロードの袋に入れたような気もするが、容器自体の外側がビロードの布で張ってあったのかもしれない。一度火を点けた懐炉は一晩くらい暖かさを保った。燃料が燃え尽きて冷たくなったら、蓋を開けて中の燃えかす、というか灰を捨てれば終わりだった。その意味では使い捨てかもしれないが、入れ物は雑な扱いをしない限り半永久的に使えた。構造自体比較的単純で、壊れようがない、とも言えた。

 懐炉の燃料は10本か12本まとめたものを売っていたように思う。メーカーは「桐灰」だったことをはっきり覚えている。1本ずつの燃料を包む紙に、桐の葉と花の意匠、それに「桐灰」の文字が、たくさん並んでいたからだ。子供の二三四(わたし)はまだ漢字を読めなかったが、大人たちが呼ぶ「きりばい」が刷り込まれた。懐炉の本体はあくまで「かいろ」だが、中身を入れ換えたり買ったりするときは商品名で「きりばい」と呼んでいたのだ。

 いまカイロと言えば鉄の酸化反応を利用する使い捨てカイロがほとんどだろう。着火する「桐灰」も、使い捨てタイプが普及し始めてからしばらくは市販されていたと思うが、改めてメーカーとその製品を調べると、現在製造しているのは使い捨てタイプのみで、着火式の懐炉の製造は止めていた。

 もっとも残ったのは桐灰ブランドだけで、会社は2020年に小林製薬に吸収合併された。なんでも、安価な使い捨てカイロが普及し過当競争に陥る一方、地球温暖化のために需要は伸び悩んだのが原因とか。祖母が使っていた懐炉はもう作っていない、というようなノスタルジックな話でないのは少し悲しい。

《参考》
小林製薬株式会社>桐灰カイロ  
桐灰化学株式会社

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