文字を持たなかった昭和 二百六十三(冬の衣服、続き)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の冬の暮らしぶりとして、ミヨ子が来ていた衣服について書いた。書きながら、他の家族はどうだったかと考えた。思い出せる範囲で書いてみる。

 ともに明治前半生まれの舅の吉太郎と姑のハルは、亡くなるまで基本的に年中単衣(ひとえ)の着物を着ていた。あくまで普段着としてであり、往々にして作業着を兼ねた。二人とも冬場は少し厚めの着物を着ていたと思うが、袷(あわせ)だったのかはわからない。

 吉太郎はふだん着物の下に薄いシャツやステテコを来ていたが、冬場はそれがいわゆる「ラクダ」に変わった。ラクダと言っても、いまの人(!)にはわからないだろう。黄色味がかったベージュの厚手の下着で、ラクダのような色なので「ラクダのシャツ」「ラクダの股引(ももひき)」と呼ばれていたのだ。もっとも農作業のときは着物が汚れないよう裾をまくって帯に挟み、ほとんど下着姿で働いていた。

 ハルのほうは着物の下の襦袢を厚めのものに換えたのだろうか。そのあたりは記憶にない、というより区別を認識していなかった。

 うんと寒くなると、二人とも着物の上に綿入れのちゃんちゃんこ――鹿児島弁で「かたぎん」――を着ていた。ハルが自分で仕立てたもので、表が破れると自分で繕い、綿がへたってくるとこれまたた打ち直して着ていた。

 室内も温かいとは言えない。家の中ではやはり綿入れの半纏(はんてん)を羽織っていた。半纏を羽織ると動きづらく、とくに袖回りが不自由なので、部屋着かせいぜい庭先での軽作業用だった。そう、綿入れ半纏は家族みんなが持っていた。薄めの布団を纏うような半纏は、寒い室内では必需品だったのだ。

 夫の二夫(つぎお。父)は、いつも軽快に動き回り元気いっぱいだった(ように、誰の目にも見えた)。冬場も靴下をあまり履かず、ちょっとした作業なら素足にゴム草履を履いていた。股引などもほとんど履かず、下着が少し厚手になるくらいだった。もっとも長時間の農作業ではジャンパーは着ていた。風よけになるからだ。いずれにしても、防寒になっても身体の動きが悪くなるような衣類は好まなかった。

 特筆すべきは、ハルは家族で唯一カイロを使っていたことだろうか。カイロは、いまのような使い捨てではない。「懐炉」の字のごとく、火のついたものを懐に入れて暖をとるものである。この本格的(?)懐炉には思い出があるので、項を改めて書くことにしたい。

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