文字を持たなかった昭和531 野菜(5)エンドウ豆⑤エンドウ豆料理
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
もうしばらく老境に入ってからのミヨ子について述べることにして、ミヨ子の野菜作りや野菜を使った料理について書き始めた。一つ目は「エンドウ豆」、毎年春になると庭先の畑にミヨ子が植えたエンドウ豆(グリーンピース)がたくさん実ったこと、エンドウ豆をミヨ子は「ぶんず豆」と呼んでいたこと、ミヨ子が炊いた「豆ん飯(豆ご飯)」などを述べた。
ミヨ子が作るエンドウ豆料理=豆ご飯、と言っていいくらい豆ご飯の印象が強い一方で、その他のエンドウ豆料理について、少なくとも娘の二三四(わたし)の印象に残っているものはほとんどない。唯一思い出せるのは、エンドウ豆だけを煮込んだものだ。
自前の畑で作った野菜は季節になると大量に実る。「旬を楽しむ」レベルを超える量だ。収穫のタイミングが多少ずれるように工夫しても、露地ものの場合自然条件を回避するには限界がある。
エンドウ豆も例に漏れない。実をつけ始めたエンドウ豆は次々とサヤを膨らませ「早く獲って」とミヨ子をせかす。ミヨ子はせっせと実を摘み取り、サヤから実を外す。もう何回か豆ご飯を炊いた。今日はどうしよう――。
というときに登場するのが、「豆の塩煮」だった。
調理法は単純だ。ひたひたに水を加えた鍋で、エンドウ豆を柔らかくなるまで煮る。仕上げに少し醤油を入れることもあった――かもしれない。豆の味がストレートに味わえて、おいしいと言えばおいしいのだが、豆だけをお皿にてんこ盛りで出されると、食べる前からゲップが出そうではあった。二三四の記憶の中では、豆ご飯がおかずなしのご飯なら、おかずになる豆料理の唯一のものがこの煮物だった。
いま思えば不思議なのだが、エンドウ豆が大量に獲れたからと言って、それを甘くして使おうという発想は、ミヨ子はもちろん、集落でも、地域の誰にもなかった。
だから、高校卒業後に福岡県内の大学に進学した二三四が「うぐいす餡」というものが入っている和菓子を食べて、餡の正体がエンドウ豆であることを知ったときの衝撃は大きかった。
「甘いエンドウ豆がある!」
よく考えれば、豆なのだから干せば長期保存できる。あずきで作るのがふつうのあんこなら、エンドウ豆で餡も作れるはずなのだ。もしかすると、鹿児島市内の老舗の和菓子屋さんにはうぐいす餡を使うお菓子があったのかもしれない。しかし、小さな町の和菓子屋が扱う和菓子のバリエーションはそう多くなかった。
まして農村地帯で暮らすミヨ子たちには、エンドウ豆を干して緑色の餡を作るなどという発想はなかったし、そんな伝統、習慣もなかったということだろう。
かくして、春になりエンドウ豆が実ると、ミヨ子の家では「豆ご飯、ときどき豆の塩煮」という献立が繰り返された。