文字を持たなかった昭和 百九十一(町民運動会③、お弁当)

 昭和後半、鹿児島の小さな町の運動会について書いている()。

 母ミヨ子は運動が苦手だったので、婦人会のダンスに駆り出される以外はもっぱら応援に回った。応援席――会場である中学校のグランドの、トラックの外側――は地区ごとに割り振られていたこともあり、席取りから融通し合って、近所や親戚と固まって茣蓙(のちにはまだペラペラだったレジャーシート)を広げるのが常だった。

 運動会でミヨ子が最も「活躍」するのは、お弁当作りである〈123〉。

 お弁当の中身は、おむすび、昆布巻き、煮しめ、甘い卵焼き、赤いウィンナー、といったところ。運動会の主食はのり巻きではなくおむすびが多かった。

 ミヨ子のおむすびは「太鼓型」というのか、直径7~8センチの短い円筒形で、胴体の真中が少し張り出し、上下は気持ちくぼんでいた。握っているうちにくぼみができるようだった。のりは巻いたりせず、最後にゴマ塩をつけた。どこで覚えたのか訊いた気もするが定かではない。近所のお宅のお弁当にも同じようなおむすびが入っていることもあった。

 昆布巻きはサバなどの魚を巻く。水に戻して幅が広く長くなった昆布を適当な大きさに切り、魚の切り身を巻いて、何本かまとまったら糸で綴じていた。ミヨ子は青魚にアレルギーがあり自分は食べないのに、ここぞというときの昆布巻きはよく作っていた。

 煮しめは、行事のときは必ずと言っていいほど登場した。自家製の乾物や野菜が中心の素朴なもので、ひとつひとつの食材が大ぶりなのが特徴と言えば特徴だった。ただ、ふだんからよく作るためありがたみにはやや欠けた。

 卵焼きは必ず甘い。ただし、甘いだけでなく塩味もわりとはっきりしている。あまじょっぱいというほどではないが、適度な塩味のおかげでおかずとしての「格」を保っていた。

 赤いウィンナーはタコ足には切らず、斜めに深めの切り込みを入れた。フライパンに油を多めにひいて転がすと、切り込みが開いて油も浸み、おかずらしい味になるのだった。

 運動会は朝から夕方近くまでの長丁場なこともあり、お弁当には果物がつきものだった。10月10日の体育の日の頃は、果物もいろいろな種類が出回る季節だ。子供の二三四(わたし)がいちばん好きなのは梨だった。ミヨ子は、重箱の中で色が変わらないようにと、リンゴと同じように薄い塩水にくぐらせてから詰めてくれた。

 もっとも、梨は鹿児島ではほとんど穫れないので、買うかもらうかしかない。梨が入っていれば上等で、多くは家のミカン山でもいできた、まだ少し青いミカンだった。

 ところで、タッパーウェアなどまだなかった時代、お弁当を詰めるのは重箱と決まっていた。重箱の代わりになるようなプラスチック製の容器が出回るのは、昭和40年代後半以降だったと思う。何人分ものごはんとおかずを詰めた何段もの重箱――近くの席の人と交換することを考えて、多めに詰めただろう――を、ミヨ子は一人で運んだのだろうか。

 家から会場の中学校まで、歩いて30分近くかかった。母親を手伝って重箱の一部を運んだ記憶がない。車を買う前の父二夫(つぎお)が、オートバイに積んで運んだのだろうか。お昼には周りの席の男衆と焼酎も飲んでいたはずだが、当時飲酒運転はさほどお咎めを受けなかったということか。

 記憶がところどころつながらないが、少し乾いた、でもまだ強い日差しの中、近所の人たちと笑い合った光景を思い出す。ほんの少ししょっぱかった梨のみずみずしさ、青いミカンの香しさとともに。

〈123〉ミヨ子が作る行楽弁当については「五十三(行楽弁当―おむすび) 」「五十四(行楽弁当―煮しめ)」でも触れた。

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