文字を持たなかった昭和 百八十九(町民運動会①)

 稲刈にだいぶ費やしてうっかり忘れるところだった。

 本日10月10日は「スポーツの日」とやらでお休み。本年(2022年)はたまたま(わたしの嫌いな)「ハッピーマンデー」の月曜日に嵌っているが、10月10日は本来「体育の日」、昭和39(1964)年の東京オリンピックの開会式が行われたのを機会に、国民の体力向上やスポーツ振興を願って設けられた祝日である。

 母ミヨ子が生まれ育ち、結婚後も住んでいた鹿児島県西部の小さな町では、その体育の日、毎年の10月10日に「町民大運動会」が行われていた。 毎年の体育の日だったので、東京オリンピック以降に始まったのだろう。「平成の大合併」で町がなくなるまでは続いたのではないかと思う。

 ミヨ子の二人の子供たちが幼稚園から中学、高校へ通う頃まで、昭和40年代から50年代前半、この町民運動会はとても盛り上がったものだった。

 町民人口は多い時で8000人近くと小ぢんまりした規模。町にはおおざっぱに言えば農村地帯と漁村地帯、役場もある商業地区、そして山村部があった。町民運動会は基本的に地域対抗戦である。町全体を(わたしの記憶では)5つの地域に分け、それぞれ赤、黄、青、緑、白に色分けした。あるいは青か緑は紫だったかもしれない。ミヨ子たちの地域は、町内を流れる大きな川のおおむね北側に位置するということで「川北」と呼ばれ、赤組だった。

 会場は町内唯一の中学校のグラウンドである。このグラウンドは400メートルトラックで、周囲にテニスコートやバレーコート、バスケットコート、弓道場などがあり、見物して応援する町民を「収容」するのに十分な広さがあった。

 各地域から代表を選んでのリレーや障害物競争、パン食い競争、玉入れ、綱引きなどを行う。リレーでは、小学、中学、高校生を含む青年、壮年がそれぞれ男女の代表を出して競った。幼稚園生のお遊戯、婦人会によるダンスなどもあって、いまでいうそれぞれの「属性」に合わせた様々な競技や出し物がちりばめられていた。

 いちばん熱が入るのは「分館対抗」競技である。分館、別名公民館とは集落――当時は部落と呼んでいたが、いわゆる被差別部落を指す部落の概念ではない――を指した。いちばん身近な共同体が一帯となって競技するのである、盛り上がらないはずがない。

 ほとんど分館ごとにシートを敷いて集まり、昼ごはんのお重箱を分け合いながら、男衆は焼酎も飲みながら、応援に興じ、自分の出番では一生懸命走る。それを笑ったり、手を叩いたりしながら見て一日を過ごす。

 毎年の10月10日は、スポーツの秋、そして行楽の秋のクライマックスだった。

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