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文字を持たなかった昭和 番外(大切なお玉――1年の終わりに)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、名を残すこともない、自分について語る方法も知らなかった庶民の暮らしぶりを綴っている。このところミヨ子さんが経済的にいちばん苦労した時期について書いてきたが〈200〉、年の終わりに番外として違うことを書いておきたい。

 一年の終わり、ふだん使っているものを手入れしたり、長く使い続けたものを処分して買い替えることも多い。わたし自身はわりと物もちがいいほうで、同じものを長く使う傾向がある。たんにケチで、買物がめんどくさい性格だとも言えるが。

 そんなふうに長く使っているものの中で最長に近いのが、ミヨ子さんの母(母方の祖母)ハツノさんがくれた、料理用のお玉である。たしか大学時代にもらったのでかれこれ40年ほども使っている計算だ。もっとも当時は自炊の必要がなかったし〈201〉、社会人になってからも自炊しなかった時期もあり、毎日のように使いこんでいたわけでもない。ただ、ここ10年近くはわりとこまめにご飯を作り、ご飯にはだいたい汁物をつけているので、お玉の出番は多い。

 お玉の金属部分はアルミニウム製で、プラスチックの柄がついている。金属部分はいわゆる「一体型」ではなく、汁を掬う半球形の部分と柄は小さなネジ(蝶番?)で接続してある。使い込んだお玉をときどき眺めては、「よくもったなぁ」と感心する。できれば死ぬまで使いたいと思ってきた。

 ところが最近お玉と柄の接続部が緩んできたようで、ちょっとグラグラする。接続部の小さな金具も使ううちに摩耗するだろうし、金具が止めてある穴も緩むだろう。汁掬い(?)が柄から離れてしまうのも、時間の問題かもしれない。

 改めてお玉を見ると、磨いているわけでもない金属部分は黒ずんでいるし、プラスチックの柄は熱と洗ったりしたときの衝撃などで一部変形している。だいたいこのお玉は汁掬い部分が小さめのうえ浅いので掬いづらく、使い勝手がいいとは言い難い。

 それでもこんなに長く手放せないでいるのは、ハツノさんがわたしに初めて買ってくれた生活用品だからだ。ミヨ子さんの実家は同じ集落にあったため、わたしも子供の頃から母親の実家へしばしば遊びに行き、祖母であるハツノさんにはよく懐いた。熊本からお嫁にきたハツノさんは、近所のおばあさんたちと少し雰囲気が違った。一言でいうとさばけているというか、気風のいいところがあった。

 親の反対を押し切って県外の大学へ進み――本編の「困難な時代」ではちょうど受験するあたりを書いている――いわゆる苦学をしていたわたしが帰省したときに買ってくれたのが、このお玉である。

 アルミ製で軽く、当時流行りのデザインの柄がついたそれは、地域にオープンしてそれほど経っていない農協系のスーパーの台所用品売場で買ったと聞かされた。それほど高価でも高級品でもないのだが、県外で苦労する孫に身近で長く使えるものをあげたい、という気持ちがうれしくて、使い続けていまに至っている。

 いま考えれば、ハツノさんはわたしにとってある意味におけるロールモデルだったのかもしれない。のちにキャリアウーマンと呼ばれる生き方がまだまったく身近になかった頃、子供のわたしはこのすてきなおばあちゃんに憧れた。農作業も家事もてきぱきとこなし、とくに料理は上手だった(ハツノさんについてはいつかちゃんと書くつもりだ)。

 お玉は、そのハツノさんの分身であり、わたしを支え励まし続けてくれている、のかもしれない。お玉が壊れてしまう前に、このことを書いておきたかった。

〈200〉「困難な時代」は「(1)始めに」から始まり、目下「(30)志望校」まで。
〈201〉簡単にいうとわたしは学生時代居酒屋に住み込んで通学していたので、賄いがあったし、賄い以外の食事も適当に作っていいことになっていた。

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