文字を持たなかった明治―吉太郎31 最初の子・ハツエ①

 明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を進めているが、前々項前項で述べた吉太郎の前妻・セキの話の、ある意味続きである。

 セキはお産が重くて亡くなった、と書いた。吉太郎はまだきょうだいたちと同じ戸籍に属してはいたが、跡継ぎたり得ない五男として一生懸命働き続け倹約して貯めたお金で、その頃には大きな屋敷を構えていた。お産もその家で行われたと思われる。

 産まれたのは女の子でハツエと名付けられた。初めての子供だったからであろうことは想像に難くない。

 セキが亡くなったのは大正14(1925)年7月2日。お産は――当時、というより昭和の前半まではふつうだったように――お産婆さんを家に呼んで行われただろうが、亡くなったのはお産の途中か、直後か、あるいは産後の肥立ちが悪く、お産からしばらく経ってからなのかはわからない。母体に命の危険が迫るような緊急事態があったのだとして、お産婆さんがどの程度対応できたのか、産後の手当てや養生はどうしていたのかもはっきりしない。後添えのハル(祖母)の血を引く別孫娘の二三四(わたし)に、そんなことまで語ってくれる大人はいなかった。

 確かなのは、セキが亡くなって赤ん坊に飲ませるお乳もなくなったこと、父親ひとりでは赤ん坊の世話も十分にはできなかったことだ。セキが亡くなったとき、吉太郎は満で45歳になっていた。それまで働くばかりの生活で、赤ん坊はおろか子供の面倒を見たこともなかっただろうし、炊事などの家事も家族の女性の誰か頼りですんできただろう。

 ハツエはセキの後を追うように7月8日に亡くなった。お寺の記録にもお墓にも「享年1歳」とあるが、これは生まれると同時に1歳とする数え年の数え方によるもので、身ごもった時点ですでに「生を受けた」と捉える考え方でもある。セキがお産の途中で亡くなったのだとしたら、ハツエはこの世に生まれ出て1週間もせず天に召されたことになる。

 吉太郎とセキ。どのくらいの年月か知りようもないが、夫婦としてともに暮らし、子供を授かり、お腹が大きくなりお産を迎えるまでの日々もともに送ったことだろう。その妻と、生まれたばかりの子をほとんど同時に亡くした。当時であればすでに老年に差し掛かっていた年齢の吉太郎は、どう感じたのだろう。

 孫娘として、一人の女性として、吉太郎に聞いてみたい気がする。

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