文字を持たなかった昭和374 ハウスキュウリ(23)お隣さん②

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げ、苗の植えつけ手入れ収穫、そしてキュウリの生長スピードに収穫が追い付かなくなっていた状況などを書いた。キュウリを育てる大型ビニールハウスの区画には、もう1軒の農家Mさん夫婦が、同じようにハウスキュウリに取り組んでいた。その続きである。

 いっしょにお茶を飲まないからと言ってMさんたちは愛想が悪いわけでもなく、仕事の合間に二夫たちと談笑する姿もよく見かけたし、何かの用事でどちらかが半日あるいは一日来られない、というようなときは、作業を融通しあってもいた。

 ただ、年齢差によるいろいろな違いは、子供の二三四(わたし)の目にも明らかだった。まず作業のスピードが段違いだった。若いうえにどちらも大柄なMさん夫婦は、高いところに生ったキュウリも楽々摘んで、サクサクと収穫をこなした。大きくなり過ぎたキュウリを持て余している様子は、微塵もなかった。

 生活習慣も違った。家が近い二夫たちは昼ごはんはたいてい食べに帰った。忙しくて帰る暇がないときは、日の丸弁当に毛が生えた程度のものを用意するぐらいだった。一方Mさんたちは、しばしばパックに入った市販の弁当を買って来ていた。

 朝ごはんも食べないと聞いた。早朝ひと働きしてから朝食をとるのがふつうの農家だと思って育った二三四は、腰を抜かしそうだった。
「朝なにも食べないで働いて、だいじょうぶなのかね」
とミヨ子にそっと尋ねると
「晩ご飯のあと、二人でお菓子やおつまみを食べながら遅くまで起きてるみたいよ*。それで朝早くは起きられないし、お腹も空いてないんだって」
と教えてくれ、
「若いもんはいつまでも起きてるからねぇ」
と付け足した。

 そう、太陽に合わせて労働するような昔気質の農民であるミヨ子たちと、20歳ほども離れた世代の農家は、何もかもが違っていたのだ。ハウスキュウリのような最新式の経営は、Mさん夫婦のような新しい農家にこそ相応しかった――のだろうと、一連の経緯を振り返って、二三四は改めて思う。

 しかし、ビニールハウスが建っていた場所は、二夫たちが「撤退」して数年後には何もなくなっていた。つまり、Mさんたちのハウスキュウリも長くは続かなかったのかもしれない。それが名誉の撤退だったのか、傷(負債)を負って止むなくの撤退だったのか、知る由もない。

*鹿児島弁というわけではないが、煎餅やスナック菓子のような、食べるとパリパリ、サクサク音がする食品を、ミヨ子は「ハリハリ」と呼んでいた。地域の他の人がそう呼んでいるのはあまり聞いたことがないので、ミヨ子の造語かもしれない。それを使えば、この発言はこうなる。
「ハリハリどん食(た)もっせえ、遅(おす)ずい起きっちょったっち」


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