文字を持たなかった昭和373 ハウスキュウリ(22)お隣さん①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げ、苗の植えつけ手入れ収穫、そしてキュウリの生長スピードに収穫が追い付かなくなっていた状況なども書いた。忙しい最中に姑のハル(祖母)が亡くなったり夫の二夫(つぎお。父)がビニールハウスの屋根から落ちたりといった、運の悪い事態も起きた。

 とは言え、ハウスキュウリは数年続けたのだし、それも稲作などの他の農作業とも並行したのだから、主力の経営として日常の中でそれなりに定着していた、とも考えられる。その「日常」には当然外部とのおつきあいもあった。

 「ハウスキュウリ」の項を開始以来、ミヨ子たちのビニールハウスについてだけ述べているが、ビニールハウスにはじつは「お隣さん」がいた。農協の近く、元は水田であったビニールハウスが建てられた一角は、ハウスキュウリ用のパイロット区画だったのかもしれない。ミヨ子たちとほぼ同じ面積、同じ仕様のビニールハウスが、もうひと区画あったのだ。

 この隣の区画は、30代前半の若い夫婦Mさんが同じようにキュウリを植えていた。Mさんたちは、同じ町内でもビニールハウスからけっこう離れた場所に住んでいた。その辺りは町の中心部まで遠く、子供たちも小学校までとても通えない距離なので、分校のような小さい小学校がある地区だった。中学では町内全体でいっしょになるのだが、卒業すれば進路が分かれてしまうこともあり、この地区以外の住民にとっては馴染みが薄い場所でもあった。Mさん夫婦はそこから毎日通って農作業に勤しんでいた。

 とは言え、もちろん車(軽トラック)なので20分も走れば着いたはずだが、Mさん夫婦がビニールハウスに着くのはいつも遅かった。学校が休みの日など、二三四(わたし)が両親より遅れて到着し、10時のお茶の支度をしている頃にMさんたちの軽トラがやってきた。

 ペアルックのようにどちらも白いつなぎの作業着を着ている二人に、二夫がお茶を飲みながら
「あんたたちもいっしょにお茶をどうだね」
と声をかけると、たいてい苦笑しつつ
「いま起きたところなんです。急いでキュウリを採らないと」
とそそくさとビニールハウスに入っていくのだった。

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