文字を持たなかった明治―吉太郎44 内助の功

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ちひと粒種の男児を得た吉太郎は、相変わらず仕事優先。収入のほとんどは自分で管理し、家族にも知られないようにしまっておくのが常だった。

 吉太郎はいつも、お金がまとまったらさらに土地を買うつもりでいた。
その行為はある種の投資だったと言えなくもない。土地(農地や山林)を持つこと、それを元手に財を生み出すことは、資本家が工場や倉庫を建てたりすることとほぼ同じだったとも言える。その観点で言えば、吉太郎はやはり鹿児島弁で言うところの「魂利っ(たましきっ)」、知恵が働く世渡り上手だったのだろう。

 かように、吉太郎は日々の労働と、その成果である貯蓄に励んでいたが、前項で触れたとおり、まとまったお金は自分で管理する一方、日々のやりくりは妻のハル(祖母)に任せきりだった。

 と言えば、どこにでもいる昭和(以前)の亭主という感じだが、吉太郎のすごい(?)ところは妻にお金をほとんど渡さない点にあった。前項で「お札(紙幣)は自分で管理した」と述べた。端数の硬貨がまとまったときもすぐにお札に換えたから、ハルはやりくりのためのお金はこっそり確保するか、さもなくば自分で稼ぐ手段を考えなければならなかった。

 ハルは、畑で多めに育てた野菜や、余分にこしらえた味噌、醤油などを天秤棒で担いで街まで売りに行った。もちろん稲作など日々の農作業をこなしながら、である。そうやって得たお金――もちろん大金ではなく、いまの感覚では小遣い程度だっただろうが――で、日々のやりくりをしたのだと言う。

 この辺りの詳細は、いずれハル自身の物語を書く際に改めて述べたいと思っているが、吉太郎もやり手なら、ハルもそれに負けないやり手だったと言える。

 そんな内助の功を、吉太郎は当然のことと思ったのか、たんにハルに甘えていたのか。

 自分が家計用のお金をほとんど渡さないからハルが野菜を売りに行っているのに、タバコ銭などのちょっとした出費の際、吉太郎は
「おい、小銭を持ってないか」
とハルに「おねだり」するのが常だった。

 というのも、前項のエピソード同様、のちに嫁にきたミヨ子(母)から二三四(わたし)が聞かされた話である。「じいちゃんは自分のお金はしっかり握って、お札は絶対に崩そうとしなかったからね」と笑いながら話してくれたものだ。

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