文字を持たなかった明治―吉太郎43 貯蓄

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ちひと粒種の男児を得た吉太郎だったが、相変わらず仕事優先、農作業に明け暮れる暮らしを続けていた。あくまで想像ではあるが、吉太郎の人生の目標は自分の土地を持ち、それを広げることだったからではないだろうか――といったことを前項で述べた。

 当時農山村においては、土地持ちは金持ちとほぼイコールだった。土地という資本を持たなければ、同じ農作業であっても「小作」である。収穫の何割も地主に差し出さねばならない。土地さえあれば、それを誰かに貸して「上納」してもらうこともできる。土地はまさに打ち出の小槌のようなもの――と、吉太郎が考えたとしても不思議ではない。

 しかし土地を買うには、いまも当時もまとまったお金が必要だ。吉太郎は貯蓄に励んだ。

 吉太郎のやり方は極めて亭主関白的、そしてある意味ちょっと「せこい」ものだった。収穫した農作物を換金してある程度まとまったお金が手元に残ったとする。その中のお札(紙幣)は、妻のハル(祖母)に渡さず自分で管理した。

 吉太郎は紙に包んだお札をとりあえず自分だけが知る場所にしまっておいた。庶民にとっていまほど金融機関が身近ではなかったにしても、小さな農村とは言え郵便局で貯金する方法くらいはあったのだろうが、すでに何回か触れたとおり〈263〉吉太郎は字を書けなかった。郵便局に赴き自分で預け入れなどの手続きをすることはなかったのだと思う。

 それが当時の庶民の一般的な行動だったかまではわからない。ただし同じ地域の吉太郎世代の多くは、自分で役所や金融機関で手続きをするという行為とは、少なくとも縁遠かったはずだ。

 そんな、言ってみれば「タンス預金」のような方法で、吉太郎はせっせと貯蓄に励んだ。硬貨でもらったお金は貯めておいてお札に換えた。お札のほうがしまいやすいというのが一番の理由だっただろう。そして、稼いだお金は手元に置いておきたいという気持ちも強かったのかもしれない。

 そんな吉太郎の姿を、のちに吉太郎の一人息子・二夫(つぎお。父)の嫁となったミヨ子(母)はよく覚えており、娘の二三四(わたし)に語ることもあった。

「じいちゃんはお札が手に入ると、畳の下に敷いて皺を延ばしてから紙に包んで、誰にも言わない場所にしまっておられたよ。それはそれは大切に扱ってね。
 あれは何のタイミングだったか、一度だけ、厚い本にお札を挟んでいるところを見たことがあってね。じいちゃんは字を読めないはずなのに、何の本だったのか。もちろんそんなところを見たとは言えないし、あとでその本の在り処を確かめたりもしないで、そのままだったけど」

 ミヨ子がこの家に嫁入りするのは昭和29(1954)年だから、吉太郎のこの姿を目にしたのはそれ以降だろう。吉太郎は息子が結婚したあとも、タンス預金をせっせと続けていたことになる。それもこれも、また土地を買い広げるための元手としてだったことは想像に難くない。

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