最近のミヨ子さん 介護施設について(後編)

前編より続く)
 前編で述べたとおり、ミヨ子さん(母)が入る介護施設をカズアキさん(兄)夫婦が探し始めたときも、入所が決まったあとも、「息子家族の家から近い」ことはわたしも重要な要素だと思っていた。

 気軽に会いに行けるのは大事なことだからだ。どんなに至れり尽くせりでも――そんなところに入れるような資金的余裕はミヨ子さんにはなかったけれども――、遠くてめったに面会に行けないような施設より、家族がちょこちょこ顔を出せるところのほうが、本人もうれしいだろうし、家族の負担も少ないはずだから。

 ただ、わたしは入所が現実味を帯びるまで、施設に対しては別の考えも持っていた。

 ミヨ子さんは息子家族との同居が始まるまで、その時点で80余年の生涯のほとんどを生まれ在所の農村の集落で過ごしてきた。嫁ぎ先も同じ集落だったからだ。息子家族と暮らせるとは言え、ほかには周りに誰も知った人がいない住宅地では、昼間はテレビのお守りをするしかない。畑に出たり庭に花を植えたり、たまにでも近所の人が訪ねて来たり、外に出れば見知った人と会えたり、といったそれまでの生活が断ち切られたも同然だった。

 わたしは、ミヨ子さんが施設に入るようなことになったら、郷里の施設のほうがいいのではないかとずっと思っていて、機会があればお嫁さん(義姉)にもそれを伝えたりもした。同じ鹿児島とは言え、言葉も違うし共有する記憶も違う人たちよりも、認知機能が低下していても、共通するものがある人たちといっしょのほうがいいのでは、と考えたのだ。

 じっさいミヨ子さんは、ここ数年認知機能が徐々に低下し、新しい情報や認識はあまり蓄積されない――つまりすぐに忘れてしまう――一方で、郷里の地名や親戚、知人の名前、長らく携わってきた農作業や季節の行事などを話題に出すと、敏感に反応した。ひとつの固有名詞から芋づる式に記憶が(ただしかなりの確率で脈絡なく)甦るような様子も窺えた。

 昔の記憶や使い馴れたことばを少しでも共有できる環境のほうが、ミヨ子さんにとっていいのではないか。

 それが娘としてのわたしなりの推論というか希望だった。

 しかし、いざ入所となるとさまざまな「利便性」の優先順位が上がる。ことに、下準備のしやすさ、家族にとっての通いやすさは優先順位の上位だ。その点では、ミヨ子さんにとってずっと人生の拠点だった町は、息子家族の家から車で30分、とけして近くはない。カズアキさんは、実家跡に造った菜園へ週1回以上のペースで通うが、毎回施設に立ち寄るとは限らないだろう。ほかの家族にとってはなおさら足を運びにくいだろう。

 結局、息子家族の家から至近の施設に決まったのだが、近隣のほかのいくつかの施設と比較検討したというほどではない。わたしも、ほかに候補があったとは聞いていない。ましてミヨ子さん本人を事前に見学させたわけでもない。もちろん「見学させても理解できないだろう」という配慮(?)からだろうが。

 すべては「この施設で」という前提で進み、あっという間に入所してしまった。

 それでよかったのか。わたしはいまひとつ納得できていない。いや、自分を「これでいいのだ」と説得できない、とでも言おうか。準備から入所までをリードしてくれたお嫁さん(義姉)には、これまで長い年月のお世話を含め感謝しているけれども……。

 親と離れて暮らすこと、親の介護という課題に対して家族のなかで意見を調整することの難しさを、ひしひしと感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?