昭和な(?)マナー トイレ。使う前よりきれいに

 ここnoteでは、昭和期――筆者が知る範囲――の習慣や風俗などについても折に触れて綴っている。今回は最近使った商業施設のトイレでのこと。

 このトイレはわたしのお散歩ルート上にあり、よく使わせてもらっている。その日も何気なく入ろうとして、足が止まった。引き出されたトイレットペーパーがうず高く積まれ、一部は汚れている。ぐるぐる引き出して使ったあと外に置いたままのようにも見える。ペーパー以外にゴミもが落ちている。

 ここのトイレをよく使う関係で、多少の汚れや散らかり具合のとき「恩返し」(?)のつもりでざっと掃除することがある。汚れは、多めに取ったペーパーで拭いて流せばいいし、ごみの類はやはりペーパーでつまんでゴミ箱に入れればいい。あとは手をきれいに洗えばなんの問題もなかろう。コロナ期あたりから「衛生面を優先して」という理由でゴミ箱を撤去したトイレもあるが(個室内の汚物入れではなく)、ここのトイレは幸いゴミ箱も置いてある。

 しかしこの日の散かり具合は度を越していた。後ろ髪をひかれる思いで、ほかの個室で用を済ませて失礼した。

 翌日同じくらいの時間帯の、同じ個室。また散かっている。長く引き出されたペーパーが、隅にうねうねと横たわり、同じ場所にはコンビニおにぎりのパッケージフィルムと、海苔のかけらも落ちている。汚物入れには、濡れたペーパーが押し込んである。何かをぬぐって捨てたのだろうか。正体がわからないので気持ち悪い。が、前日ほどの量でも扱いにくさでもない。

 汚物入れのゴミは、多めに取ったペーパーでさらに押し込んで見苦しくないようにし、おにぎりの残骸やその周辺のペーパーは、新たに取ったペーパーで摘まんで、ゴミ箱へ捨てた。一度ですまなかったが。手をきれいに洗って終了である。作業の間は誰もトイレに入ってこなかった。

 もちろん、お掃除は清掃スタッフがしてくれるだろう。だがそれは一日の決まった時間だ。ちょっとした散かりなら自分でやっておけば、あとで使う何人もの人も気持ちがいいだろう――というのが、ときどき「小さな親切」を続けている理由だ。

 根本には、子供の頃――昭和後半といっていいだろうか――に受けたしつけや教育がある。公共のものを大切に、きれいに使うこと。あとの人を考えて、使う前よりきれいに整えておくこと。簡単に言えばこうで、習慣になればそれほど面倒なことではない。何より自分の気持ちが清々しくなる。

 いまや「あとの人を考えて」という提唱はとんと聞かなくなった。「あとの人」は「周りの人、ほかの人、みんな」と言い換えてもいい。言葉は悪いが、自分さえよければ、という人が増えていると感じる。つまりは公共心の欠如だ。いや、「公共」とか「他者のために」という概念がないようにも思う。

 共生社会を理想に上げる人は増えている。そのこと自体はけっこうだ。でも、身近な公共物ひとつ大切に使えないで、他者への思いやりを持てるものだろうか。

 と、つらつら綴っていて、同じようなことを以前書いた気がしてきた。振り返ったら、noteを始めた直後の2022年2月19日「昭和の?マナー(あとの人を考えて…)」というタイトルで一文を載せていた。基本の考えは、変らないもののようだ。


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