文字を持たなかった明治―吉太郎53 昭和の学制
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎は、一人息子・二夫(つぎお。父)の成長を楽しみにし、尋常小学校を卒業したら自分といっしょに農作業をし、百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていた。しかし、学校の先生も妻のハルも、二夫はよくできるのだから上の学校へ行かせたいと言い、ハルは「学費は自分が何とかする」とまで言う。やむなく吉太郎は折れた。
ここで当時――昭和3年生れ(と戸籍には届け出られている)の二夫が尋常小学校を卒業する昭和15(1940)年頃――の日本の「学制」はどうなっていたかを、確認してみたい。
文部科学省サイトの「学校百年史」にある「学制系統図」には、明治初期からの学制の変遷が、文章と図で示されている。昭和16年――この年の12月、日本は米英に宣戦布告する――、尋常小学校は国民学校に名称変更され、学制も戦時体制に組み入れられていくのだが、二夫の尋常小学校卒業はその少し前だ。
系統図中、昭和年代で戦後以外のものは戦時中の昭和19年(第7図)だけなので、そのひとつ前の大正8年(第6図)を見ながら確認してみよう。
第6図によれば、尋常小学校は6年制。卒業後は中学校、高等女学校、高等小学校、実業学校予科、実業補習学校など分かれている。そしてそれぞれに、その先の進路があり、尋常小学校卒業時の進学先がその後の職業人生をほぼ決めているようにも見える。
もちろん進学せずに就職したり奉公に出たりする子供はたくさんいただろう。吉太郎が二夫に望んだように、家業を継ぐことを前提に進学せずに家を手伝うケースも多かっただろう。
が、二夫はハルの後押し、というより全面的な応援もあり高等小学校へ進学した。その先に明確な進路、将来の展望があったとは思えないが――なにぶん、学費を払うことに吉太郎は大反対だったから――、「せっかくよくできるのだからもう少し勉強させたい」というのがハルの気持ちだったし、二夫自身、勉強もさることながら学校で友達と語らったり競いあったりすることは楽しかったはずだ。なにせ、両親はよその家の祖父母にも近いほど年をとっており、一人息子の二夫には、家の中で遊ぶ相手はいなかったのだから。
そのあたりの息子の気持ちは、学校に行ったことのない吉太郎にはとうてい想像できなかっただろう。
進学先が中学校でなかったのは、おそらく、近くに通学可能な中学校がなかったためだと思われる。吉太郎一家が住む村(当時)からいちばん近い中学校は伊集院中学校(大正12=1923年創立)だったが、当時なら「汽車」に乗る時間だけで30分くらい、通学には1時間くらいかかるうえ、「汽車賃」も必要だったから、二夫の成績がどんなに良くても選択肢には入らなかっただろう。
それに、中学校進学は、その先で高等学校や大学予科、上級の専門学校へ進むことを目指しており、つまりは極めて限られる学生のみのエリートコースであった。いずれ家の田畑を継いで農業に専念することが規定路線である二夫には、学問の道を重ねることは、あらかじめ否定されているも同然だった。
《出所》文部科学省 >学校系統図
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