文字を持たなかった昭和 二百一(秋の遠足、おまけ――のり巻き)

 昭和40年代前半、鹿児島の小さな町。幼稚園のバス遠足に出かけるとき、母ミヨ子がのり巻きを作ってくれたことを書いた。遠足の朝起きたときには、ミヨ子がのり巻きを巻いている最中だったシーンも。

 ミヨ子たちにとってのり巻きは、行楽のときのお弁当に詰めるご飯の中でいちばん豪華なものだったから、滅多に作らなかった。たくさんの具が必要で、手間がかかるし、全形ののりやでんぶ、卵など、買ってくる材料が多かった、つまり材料費がかさんだから、ということもある。酢飯のためにごはんに振り入れる酢も砂糖も、買ってきたものだ。

 それでもというべきか、だからこそというべきか、のり巻きを作る時ミヨ子は多めに作った。幼稚園児の二三四(わたし)と、遠足に同行するミヨ子の分だけならそんなにたくさんいらないが、留守をお願いする姑のハルや、遠足の日も当然農作業に出る舅の吉太郎や夫の二夫(つぎお)のお昼ごはんにしてもらうためでもあった。

 そのつもりで作っておいても、ハルは「もったいない」と昼ごはんにはふつうのご飯を食べて、のり巻きは夜までとっておいたりもした。

 のり巻きを作る工程の中で小さかった二三四がいちばん好きだったのは、大きなのりをさっと炙る作業だった。紙と同じように漉いて作るのりには、表と裏がある。2枚ののりの、なめらかで光沢のある表面を合わせて、それぞれの裏面を弱い火で軽く炙る。すると、黑っぽい紫色だったのりがさぁーっと緑色に変わると同時に、磯の香りが立つ。そうやって炙っておいたのりに、酢飯と具を載せて巻いていくのだった。

 その次に好きな工程は、巻いたのり巻きを切る作業だ。ただ並べただけの具が、輪切りにすると花模様みたいにきれいに現れ、魔法のようだった――というのもあるが、この作業には必ず「きれっぱし」が発生した。お弁当箱に詰めるのはきれいに切れた部分だけで、両端のきれっぱしは、遠足の日の朝ごはんとして出された。ごはんと具の割合が一定の「完成部分」とは違い、きれっぱしはたいてい具がごはんからはみ出している。つまりおかず率が高いのだ。

 朝ごはんのとき、ふだんは白いごはんをよそうお茶碗にきれっぱしが盛られて出てくるのを待ちきれず、「きれっぱしをちょうだい」とねだる二三四の口に、ミヨ子は小さめのきれっぱしをひとつ押し込んでやる。のり巻き以外ではまず使わないでんぶの甘い味が酢飯に重なり、二三四は幸せな気持ちになるのだった。

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