文字を持たなかった昭和 九十二(洗濯、続き)

 「九十一(洗濯)」では、鹿児島の農村地帯での、洗濯時の衣類の取扱いにおける男女区別について書いた(まわりくどい表現ですみません)。

 洗濯という行為そのものについて言えば、ミヨ子が下の子を産んだ昭和30年代後半当時、集落一帯ではまだ洗濯機は普及していなかった。当然、汲んだ水をタライに注ぎ洗濯板を置いて、固形石鹸を衣類に塗って手でゴシゴシ――という、いまでは往年のアーカイブ映像や、テレビドラマか映画でしかお目にかかれない、あれである。

 ミヨ子の嫁ぎ先には幸い水回りの中心に井戸があったので――井戸を中心に水回りを配してあった、が正しいだろう――、水汲みの重労働からは解放されていた。とはいえ、手押しポンプで必要量の水をタライに汲み、すすぎの水を換えながら、家族全員の衣類――生まれたばかりの赤ん坊のおむつを含む――を手洗いするのは簡単ではなかった。時間もかかったことだろう。

 また、一口に「干す」と言っても、絞るのも手の力だ。とくに厚手の布を持ち上げて絞るのは、さぞや筋力が要っただろうし、乾くのにも時間がかかったことだろう。

 しかも、洗濯は台所仕事や農作業の合間にちゃちゃっとすませるべき作業で、長時間タライの前に座っているわけにはいかなかった。ドラマなどで昔の主婦が「井戸端会議」をしている場面を見ると、「この人たちは専業主婦だったんだろうなぁ」と思ってしまう。〈84〉

 とくに舅の吉太郎は、着るものには頓着がなかった。農作業に明け暮れ、どこに出かけるわけでもない毎日、衣類は丈夫で寒暖の調節ができれば十分だったのだ。とくに田畑に出るときの衣類は、色の濃いものを好んだ。汚れが目立たず、頻繁に洗濯する必要がないという考えからだった。

 そんな吉太郎は、まめにおむつを洗う嫁のミヨ子にはイライラするときもあったかもしれない。

 倹約家の父親に遠慮してか、夫の二夫(つぎお)が電動(!)の洗濯機を買ってくれるのは、まだだいぶ先の話である。

〈84〉専業主婦に対するミヨ子の憧れは強かった。これについてもいつか書きたい。

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