文字を持たなかった昭和478 困難な時代(37)土木作業に出る②地下石油備蓄基地

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、娘の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したこと、夫婦だけの生活で支出は多少減ったものの収入増の決定打がなく、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したことなどを述べた。

 それでも事態は好転せず、ついに夫の二夫(つぎお。父)は土木作業に出る決断をした。遅すぎるくらいだが、何も手を打たないよりはましだ。二夫は、父親が買った田畑を守り抜き、ハウスキュウリの負債もなんとか自分たちの手で片づけたい一心だった。この場合の「自分たち」には、もちろん妻のミヨ子も含まれる。が、子供に頼ることだけはしたくなかった。

 前項で書いたように、作業現場は隣町K市に新たに造成される地下石油備蓄基地である。現場が比較的近いのはありがたい。二夫は毎朝ミヨ子が作った弁当を持って自家用車の軽トラックで現場まで向かい、夕方まで働いた。つまり勤め人のような生活に変わったわけだ。

 一方で稲作や、ミヨ子が一人でできる分くらいの畑は続けていた。田植えや稲刈りの時期の週末や休日には集中して作業し、朝晩の時間に田んぼに出ることもしばしばあった。畑も、ミヨ子が鍬で耕すのは限界があるから、たまに二夫に耕運機を入れてもらうこともあった。必要があれば近所の人に手伝いを頼んだ。この頃には、近所どうしの手伝いにも「日当」という形で謝礼するのが当たり前になっていて、けして安い金額ではなかったが、一定の現金収入があるのはありがたかった。ただミヨ子にしてみれば、「自分が手伝いに出て日当をもらうほうが断然収入が多くなるのに」と、日当を渡す度に感じたものだった。

 ともあれ、固定収入を得つつ曲がりなりにも農地を維持する生活が確保でき、家計はかなり安定した。ただ50代に入ってからのライフスタイルの変化は、ミヨ子にも二夫にもストレスをもたらさないはずはなかった。なにより若いころ、いやつい10年前の40代当時とも体力がまったく違う。現場は、作業の性格から残業がないのはありがたかったが、つまるところは肉体労働である。長年農作業に携わり、ほとんど病気らしい病気をしたことがなく体力には自信があった二夫も、50代半ばで、しかも初めての環境と人間関係の中で終日働くのは、目に見えない負荷があって当然だった。

 そんな二夫の負担を少しでも減らそうと、ミヨ子はさまざまに気を遣った。いや、夫が給料を持って帰ってくる生活になったぶん、夫の「地位」がさらに上がったとも言えて、ミヨ子は前にも増して二夫に対して気を遣うようになった。そのことは次項で詳しく述べたい。

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