どうして学ぶのか

私の人生をかけた問いである「学びとはなにか」を最近また深く考え始めている(人生をかけた問いなら、もっといつも考えているはずなのに、、、あれ?)

私にとって学びとは、仕事であり、遊びであり、人生をよりよくするためのもの。より良くとは、Quality of Life を向上させるため、そして何より人生を楽しむために必要だという意味です。

知っていることが多ければ多いほど、自分の中に生まれるアイデアや意見が増える。そして、自分の中に生まれるアイデアや意見が増えることが、なぜQOLの向上につながるのかといえば、やっぱりそれは「自分の中の問題解決」ができるようになるからだと思います。

最近、大人の間にも「学び」的なことが流行していて、少し調べただけでも大人向けの「学ぶ場」はたくさん出てきます。社会に出て働きだすと、みんな自分の無力さを多かれ少なかれ味わうのでしょうか、往々にして大人は「もっと勉強しておけばよかった」だとか、「学びなおしたい」みたいなことを言い出します。もちろん私も同様に、社会に出て、世の中に全然太刀打ちできない自分が情けなくて悔しくて、もっと社会で力を発揮できる人間になりたいと思い、学びたい、学んでおけばよかった、と思っています。だからこそ脱サラしてまで大学院に進学しました。

ただ、世の中にある「大人向けの学び」というのは、そのほとんどが「カルチャーセンター的」です。カルチャーセンターとは、教養講座や趣味の延長、スポーツや、最近ではビジネスや育児なんかも多く取り入れられているみたいです。カルチャーセンターはそれはそれでとても有意義なものだと思うし、仕事の息抜きや新たな自分の進路発見のためになることもあると思います。

ただ、ひとつ思ったのは、カルチャーセンターの仕組みって、私がかなり異議をとなえんとしている「大学受験のための勉強」に酷似しているなあ。ということです。

カルチャーセンター的な講座は、ほとんどの場合「目的」がしっかりしています(スポーツに関してはここからのお話には当てはまらないと思いますが)。資格を取る、スキルアップする、キレイに花を生けられるようになる、ショパンのワルツが弾けるようになる、ビジネスの潮流についていく、文章力アップ、薬膳教室にマネー教室etc...etc...

大学受験のための勉強も、目的がものすごくはっきりしています。言うまでもなく、「大学に合格する」ことです。そしてこれは多くの有識者の方々も散々仰っていることですが、「目的」がはっきりしすぎている「学習」は、自ずと「効率化」を求めることになり、そうすると「最小限の努力で目的を達成する」ことを目指そうとします。

私は、「本当の」学びとは、その「最小限の努力で目的を達成する」という意識の対極にあるんじゃないかと思っています。だから、「受験」カルチャーの中で生きてきた我々が、カルチャーセンター的な仕組みに違和感なく馴染めるのも納得できるのですが、私の求めている「学び」は、「目的」<「過程」です。

学ぶことによって人生が豊かになる、楽しくなる、そして先述した通り「自分の中の問題解決につながる」という目的はありますが、「どんな人生が豊かなのか」「何が楽しみなのか」「自分の中の問題が何なのか」というのは学ぶ前にははっきりしていません。ここでの目的とは、「結果」=「目的」なのであって、なんだかよくわからないけれど、人間に生まれたからには文化的に向上していかねば、という使命感にも似た感覚によって知識を身につけ、それを血肉化した結果、あるとき出会った大問題に立ち向かえるようになったり、なんだか前よりも人生が充実しているなあと思ったり、誰かの役に立てたりする、そんな学びが理想なのです。

もちろん、学ぶモチベーションはカルチャーセンター的なものだと思います。もっと○○ができるようになりたい、フラメンコを踊って人生を楽しみたい、仕事で必要だから経理を学びたい、おもてなし上手になりたいからテーブルコーディネートを学びたい、そんなものだと思います。ただ、ある一定の期間、「受け身」で学んでそれで終わり、ってもったいなくないか?と思ってしまうのです。

例えて言うなら、海外旅行に行って、有名な観光スポットで写真を撮ることしかしないような(私はそれをスタンプラリー旅行と言っている)、そんなもったいなさを禁じえません。旅行に行ったら、観光スポットなんかに全くなっていない町中にも面白い発見はあるだろうし、むしろ、そうやってオリジナルな発見を繰り返すことによって、「自分」が確立されるんじゃないのでしょうか。

別にカルチャーセンターの批判をしたいわけではなくて、もっと「目的の定まらない学び」というものにスポットライトを当てないと、自分の中の文化が画一化してしまって、面白さをのがしてしまうんじゃないかと思っただけです。

ただ、目的の定まらない学びは、非常に(というかもはや天文学的に)効率が悪いし、目に見えない「効果」は時として「無駄」だと判断されます。でも、「想定外」が高確立で起こり続けている今、想定された問題に対応する学びばかり繰り返していてもしょうがないんじゃないのか。じゃあ一体どうすれば、ともすれば「無駄」になりかねない努力をしようと思うんだろう。

今年度の担当科目は「漢文」です。上位校の文学部にでも行かない限り、受験においては「無駄」な科目です。これのモチベーションをどうあげていくか、これを「ビジネスをするようになったときに役立つから」というような上滑りした薄っぺらい説得ではなく、学ぶ気にさせるにはどうすればいいか、ということを考えていたら、なんだかとんでもなく話が大きくなってしまいました。


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