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文章を書くこと

「文章を書くこと」という大それたタイトルですけど、実際に文章を書くという行為は簡単そうに思えて、大それたことなのではないか、と考えるようになりました。

ぼくは、地域紙記者→編集プロダクション→フリーライターと歩んできて、文章を専業にしてお金をもらい、文章で生活を立てるようになってから、もうなんだかんだ15年になります。専業と言っても、ラジオに出たり、イベントに出たり、雑誌にコメントを出したりすることも含まれますけど、それも物書きという立ち位置でやっていることなので、まあ要するに15年間は基本的に文章(裏方も含めて)にまつわる業務以外でお金をもらったことがない、ということになります(親戚のおばちゃんが、実家の物陰で僕の手に握らせてくれた1万円札を除いては)

子どもの頃から本を読むこと、文章を書くことが好きで、大学も文学部を出ました。自分の感覚としては、取材や読書で得た情報、観察力、切り口、まともに働く思考能力(心が乱れているときはダメです)さえあれば、文章はいつでもスラスラ書けると、ずっと思い込んでいたのですが、ここ数年はそうは思えなくなってきました。

「文章を書くのは楽しいし、他のことをするよりラク」と発言したこともあったかもしれません。でも、いま思えばそれは大きな勘違いでした。文章を書けば書くほど、わからないことが増え、自分の知識のなさ、思考能力の低さ、想像力の欠如に絶望し、どんどん自分が大したことない奴だと思うようになりました。

たとえば、ドストエフスキーの小説を読むと絶望します。シェイクスピアの戯曲や詩を読むと絶望します。アルチュール・ランボーや中原中也の詩を読むと絶望します。当たり前だけど、絶対に勝てないからです。彼らが達成したことに、これ以上なにかを追加する必要があるのか、はなはだ疑問です。少なくとも、ぼくのような書き手が、やれることはないように思います。それならば、書き手であることなんてさっさとやめてしまって、彼らの文章を楽しむだけの存在でありたいと、ここ最近、何度も思いました。

もちろん、そんな天才たちと比べても仕方ないことはわかっていますし、そもそも天才たちと自分とを比べる水準までいっていないこともわかっています。繊細すぎる考えであることも。でも、一方で文章を書くという行為には、そうした大それた部分も当然あるわけで、なぜそのことに長年、一ミリも思いが至らなかったのか、我ながら不思議でなりません。

つい最近、Facebookである大先輩(友人限定だったので匿名で)が、

文章を書くといいこと。それは自分が大したこと考えてないことがはっきりわかっちゃうこと。

と投稿していて、激しく同意しました。

そういう意味では、「大したことない自分」に気づくため、というか「大したことない自分」という前提を忘れて、観念的で空虚な存在に陥らないために文章を書いているのかもしれません。そういう「大したことない自分」が「大したことない自分」と自覚したうえで、頭をひねり、苦しみ、悩み、もがきながら、魂や実感を込めて手を抜かずに書いたもであれば読者の方に少しは届くものが書けるような気はしています。ほかの書き手の方はわかりませんが、ぼくはおそらくそういう書き手なんだと思うようになりました。

※そこらへんの思いも含めて書いたのが下記のエッセイ。お時間があれば。

“何者か”になりたい夜を抱きしめて|ぼくは、平熱のまま熱狂したい|
宮崎智之 - 幻冬舎plus
https://www.gentosha.jp/article/14370/

ただ、そんな僕の文章でも読んでくれる方がいて、なかには僕の仕事を追ってくれているうえ、言葉にしてくれる方がいるという事実はとてもありがたいですし、励みになります(それがなかったら、心が折れていたかも……)

書き手にとって、一番辛いことは批判されることでもなんでもなくて、無視されることです。もし、みなさんのなかに、好きな書き手を応援したいと思っている方がいらっしゃいましたら、もちろんその方の記事を読んだり、本を購入したりすることも重要ですが、ぜひ感想を言葉にして発信してください。人によりますけど、意外と書き手はチェックしているものです。

noteは、とてもいい空間ですね。ほかの場所より気張らずに書けるような気がします。ほかの方の文章を読んでも、肩肘張らず実感のこもった文章が多いように思います。

これからも、ひとりでも僕の文章を待ってくれている方がいるならば書き続けたいと思っていますが、もちろん生活もあるのでどうなることやら。

あたたかい目で見守っていただけると幸いです!

宮崎智之

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