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【🌏私の地球カリキュラム㉞】 私、難病障害者なんですけど 。 ITB療法にチャレンゞ 毒母はやっぱり無理でした

難病障害者の私は、
䞀人暮らしをしおいた家を無事に1人で匕き払い、実家に垰っお来た。

ここ実家で生きおいく芚悟を決めた。

ほが足の動かない私だが、
この頃は、
調子が良くお物凄く頑匵れば、ただ20歩くらいは歩けおいた。
だから車怅子には乗っおいなかった。

小さい時から䜿っおいる私の郚屋は2階にある。

匕越しの荷物を2階に䞊げおもらい、
䞀人で郚屋の掃陀をしお、荷ほどきをしお䜏みやすく敎えた。

ハむハむしながら急な階段を登り、
座った状態でズルズルず階段を降りた、
かなりキツむし、危ない、萜っこちたら死ぬ
日々呜がけであった。

いずれ階には䞊がれなくなるであろうず思っおいたので、1階にも自分の郚屋が欲しかった。 

1階の奥の和宀が物眮郚屋になっおいたので、
そこを少し片付けお、ベットずテレビを眮けば十分に生掻出来る。
トむレも近いし、良い感じになるず思い、母に提案した。

母の答えは
「ダメダメ、あそこは寒いし、ムカデが出る」
( Ў)   (~_~;)    (ï¿£^ï¿£)

私が蚀ったこずは、
ずりあえずは吊定する、
毒母のい぀ものパタヌンだ。 

母は、2階に䞊がるのは危ないからやめなさいず蚀いながら、私が1階の郚屋を提案するず吊定する。

応接間を私の郚屋にすれば良いずか、
父母が寝宀ずしお䜿っおいる郚屋を䜿えば良いなんお、珟実的ではないこずを、埌々蚀っおいたが、もヌ遅い。

なにより、
今の父母の生掻スタむルを、私は倉えお欲しくなかった。

党吊定しおくる母ず、
難病障害者の私が共に暮らすのは難しい。

障害者ずしお生きお行くのは倧倉だ、 
出来ないこずが沢山ある。
そしお、
やらなければいけないこずも沢山ある。

障害者手垳や障害幎金の申請をしなければならない。
幎金の申請は倧倉だった、ネットで色々調べお䞀人で曞類を䜜り提出した。 

歩くこずが出来ない私は、
車怅子を手に入れなければならなかった。
セミオヌダヌメむドの車怅子が出来䞊がるのは半幎かかるず蚀われた。
埅぀しかなかった。

家から䞀歩も出るこずは出来ないし、
宀内でも歩くのは困難な状態だった。
倖出は月に䞀回だけ、通院の時のみ。

この頃ただ、芪ず話をする事が出来おいた。

〜・〜・〜・〜・〜・

バタバタしおいる内に、
ITB治療が䜓に適応するかどうかを詊すための入院の日ずなった。

○人生4回目の入院○

【ITB療法ずは】
筋肉のこわばりを和らげる治療で、髄腔に盎接ギャバロンずいう薬剀を泚入する治療法。

腰怎穿刺をする前の麻酔の泚射は痛い。
脊髄から髄液を抜くのはやったこずはあったが、薬を入れるずなるず少し違う。

骚髄は神経が集䞭しおいる堎所
そこに液䜓を泚入されるず、
圓たり所が悪いずビリンず足には電撃が走った。
それを8回も受けた。ボ( ̄Ў ̄;)ノ むテテ
通垞は2回くらいで良いのだが、私の䜓は薬が効き過ぎたためお䌑みしながら8回行った)

それにより、ギャバロン泚入によっお筋肉が柔らかくなるこずは確認出来た。

しかし薬が効き過ぎお、
筋肉がゆるみフニャフナャになっおより歩けなくなった。
薬の量を合わせるのが難しいらしい。

この治療をするためには、
お腹の䞭に薬を入れおおくためのポンプを埋め蟌たなければならなかった。
ポンプから針の付いたカテヌテルを背䞭に䌞ばし、盎接髄腔に薬を送り蟌む。
考えるず怖いが。
少しでも足が動きやすくなるなら、やるず決めお退院した。

ポンプを䜓内に埋め蟌む手術は1ヶ月埌に決定。

ポケポケしおいるず、1ヶ月はあっずいう間に過ぎお行った。

○人生回目の入院○

人生初の手術にのぞんだ、ドキドキしない蚳がなかった。

お腹の䞭にポンプを埋め蟌む手術は、1時間半ほどで無事に終わった。

巊の脇腹に、薬を入れおおくためのタンク、
どら焌きサむズの異物が入っおいるずなるず、かなり違和感がある。
術埌は動くず痛かった。
痛みに耐えおリハビリをしお術埌、1ヶ月で退院した。

そしお、
再び実家に戻った。

日々、平静を装い生掻しおいたが、
母に吊定されたり、キレられたり、
心無い蚀葉をかけられるたびに、
心の奥底に封印しおいた、
昔の心の傷口が開いおいくのを感じた。

母の病気は完党に治っおいる蚳ではない、
粟神的に䞍安定な人だ。  

䜕がキッカケでヒステリックに怒り出すか分からないので、ビクビクしおしたう。

私が足を匕きずっお歩いおいる姿を芋せおいたら、たすたす母の具合は悪くなるず感じた。

父は盞倉わらず䜕も蚀わない。

もヌ無理だった。
母の声を聞くだけで、気配を感じるだけで、
䜓が硬盎しお震え、涙が溢れおきた。

この堎で、
この人達ず笑っお過ごすこずは出来ない。

難病障害者はい぀䜕時、どうなる分からない。
生きおいるだけで蟛くシンドむ。

これからの人生は、心も䜓も少しでも楜に生きおいきたいず思った。
生きおいきたかった。

普通に考えれば、
障害者になり実家暮らし、 
䜏む所ず食べるこずには困らない生掻。

良かった、良かったず
なるずころかも知れないが、
私にずっおは、そうではなかった。

しばらくしお、
母が家に居る時は、2階の自分の郚屋から出られなくなった。
食事は、母が郚屋ドアの前に運んでくれた。
母が階段を䞊がっお来る足音を聞くだけで䜓が震えた

母は、週に2回決たった曜日時間に買い物に出かける。
その時だけ、1階に降りおお颚呂に入るのが
私のルヌティンになっおいた。

この環境から䜕ずか抜け出さなければ、
この山の奥深くで、私の党おが終わる。

目の前は、真っ暗闇。
䜕も芋えない。
どちらかずいうず、終わらせおしたいたかった。
終わらせるには、どうしたら良いかばかりを考えた。

䞭孊生の時にも、この堎所で同じように思っおいたこずを懐かしく思い出した。

ずにかくこの郚屋から出お自由になりたい。

䜕も出来ない日々、
食べたいお菓子もた食べられない、
飲みたいゞュヌスも飲めない。

膚倧なストレスが溜たった。

月に䞀回の病院には父が連れお行っおくれた。しかし、店には寄るこずはなかった。

父はせっかちな人で、
早く行っお早く垰るずいう人だ。

䜕凊かに寄っお垰るなんおこずはなかった、
病院の売店に寄るこずさえ蚱されなかった。

父が車を取りに行っおいる間に自動販売機で、ゞュヌスを買うのが唯䞀の楜しみだった。

仕事はしなくおいい。
家があっお食べるには困らない生掻。
楜なはずなのに苊しかった。

逃げよヌヌヌ(ò_óˇ) ここから 

぀らくお、しんどくお、耐えられないずきは
逃げればいい。

䞭孊時代に身をもっお孊んだ。
あの時は出来なかったが  。(_;

今回はやる、よし逃げ出そう‎
私、難病障害者ですけど 。♿
(-_-)出来るかな

私は、山のおっぺんの牢獄から脱出する方法を考え始めた。

健垞者ならば、簡単な事なのだが  (~_~;)
障害者の私には倧倉な事だった、それでもやるず決めた。

ここに私の未来は無いから

《難病障害者》
山の牢獄からの脱出蚈画が始たる。

    【私の地球カリキュラム㉟】ぞ぀づく

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