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「東京恋物語」第三話:謎多き恋と影

都心から西へ世田谷通りを川崎方面に進むと、閑静な住宅街が広がる中に狛江市役所がある。市役所の門をくぐった先には、早朝にもかかわらず、すでに多くの機材や衣装、小道具を積んだトラック、そしてマイクロバスが数台停車していた。
ロケ用にフロアを貸し切っている市役所二階の執務エリアでは、多くのスタッフが慣れた手つきでデスク周りやロッカーなどを、持参した書類や小物、ポスターなどを使い、リアルな撮影現場へと作り上げている。
「おはようございます」
奈々子が、撮影カメラをチェックしている監督のほうへ近づきながら挨拶をするやいなや、周辺のスタッフやエキストラも一斉に、奈々子へ向けて挨拶をした。
「奈々ちゃん、昨日は大変だったね。ちゃんと眠れた?」
五十代ならではの、熟練した職人的風格を漂わせる監督が、やさしく声をかけた。
「ええ、大丈夫です。今日一日、よろしくお願いします」
奈々子はそう言って会釈すると、マネージャーの浅野とともに、控え室として用意された、同じフロアにある小会議室へと向かった。
「奈々ちゃん、ちょっとプレスリリースの予定が早くなったけど、頑張ろうね」
浅野は、奈々子の背中に手を当てながら、そう言った。

宮野との破局報道は、一週間前に奈々子の事務所から、とある芸能週刊誌へ意図的に流したリーク情報がきっかけだった。その後、リーク情報は、メディア各社へと広まっていったのだった。
半年前から、テレビのバラエティや情報番組で、宮野と接点のあった奈々子は、共通の女友達から紹介を受けて、数人と食事会をしたことから、個人的な交際を始めることとなった。その食事会以降、宮野は積極的に奈々子へ連絡を入れるようになり、これまで数回、二人でプライベートな食事をしている。
特段、深い仲になってはいないが、一か月ほど前のある夜、六本木の高級レストランで、宮野との食事を終えて外に出た奈々は、お酒に酔ったせいか、舗道の段差に躓いた。その瞬間、宮野にもたれかかった姿が、週刊誌に掲載されたのだった。するとそれが、あっという間に、多くのメディアによる熱愛報道へと発展したのだった。
その後、報道にはならなかったが、宮野と親しかった女性の一人が、突然、自殺未遂をしたこと、さらには、奈々子の後輩女優が、数か月前から密かに宮野と交際しており、急に事務所を辞めると言い始めるなど、事務所側も宮野に不審感を抱きはじめた。そこで、事務所が主導して意図的に、今回の破局報道を企てたのだった。さらに、今後、あらぬ詮索をするメディアを遠ざけ、奈々子のイメージを壊すことのないように、自動車学校での免許取得や、かねてから趣味としていた、エッセイやリリックなどの創作活動に専念するため、半年間の休養を、近いうちに事務所からプレスリリースすることにしていたのだった。

市役所の二階フロアでは、クランクアップに向けて、ドラマの撮影が順調に進んでいる。
「カ~ット。いただきました~」
監督の声がフロアに響くと、その横にいたスタッフは、周囲に昼休憩の合図を出し、エキストラ達も、隅に置かれたロケ弁を受け取って、昼休みへと散って行った。
「奈々ちゃん、すっごい、いいねえ。魂の演技って感じで。午後からもよろしく」
監督はそう言って、昼休みにもかかわらず、撮ったばかりの映像を入念に見入っていた。
奈々子は、そんな監督に会釈した後、控え室へと歩きながら、携帯電話を取りだして、通信アプリを立ち上げた。メッセージの送信先は、小嶋祐太郎と表示されている。
控え室のテーブルで、ロケ弁を前にして、奈々子は携帯にメッセージを打ち込んだ。
(ヤッホ~、お昼だよ~。いただきま~す)
そして、絵文字を最後に加えると、奈々子は、ロケ弁の写真も同時に送信した。送り先は、もちろん祐太郎である。

西早稲田のメトロキャブ本社からほど近い、大久保通りを路地へ少し入った場所に佇むワンルームマンション。ここに、祐太郎の住まいがある。父親の小嶋正一郎と家族は、中野区に一軒家を所有して住んでいるが、祐太郎は大学生時代から、このワンルームマンションで一人暮らしを続けている。大学に近かったせいもあるが、この大久保通り一帯はリトル・コリアとも呼ばれ、韓国料理だけでなく中華やエスニックと、食事には事欠かないことも理由であった。
本来なら、今日の早朝までタクシー乗務を続け、収受金の精算、納金をした後は、今頃、熟睡し夢の中にいるはずだった。しかし昨日、長谷川の配慮により、深夜早々に業務を終了したことから、今日は朝から会社の一階にある洗車場で、愛車であるBMWミニの車内清掃と洗車をしていたのだった。
「えっ」
ズボンの後ろポケットに入れていた携帯電話にバイブレーションを感じた祐太郎は、洗車の手を止めた。
「奈々子さん・・・、ぷっ」
ロケ弁の写真とともに短いメッセージを受け取った祐太郎は、奈々子らしい文章に思わず噴き出してしまった。
(頑張って、あともう少し。何かあったら、いつでも連絡下さい)
取り急ぎ、祐太郎も短いメッセージを打ち込んで、返信した。
ビルの外には、今日も陽気で春らしい風が吹いている。洗車を終えた祐太郎は、ゆっくりと愛車に乗り込むと、新宿の街へアクセルを踏んだ。

夕暮れ間近の狛江市役所周辺は、土曜日とあって、普段着を着た家族連れが多く行き交っている。
市役所の一階ロビーには、まもなく最後のシーンを撮り終える奈々子の姿があった。
「カ~ット。奈々ちゃん、オールアップ」
監督の声と同時に、周りにいたスタッフ達は、ラストカットの撮影を終えた奈々子に向けて、一斉に拍手を送った。
「ただいまのシーンをもちまして、新藤奈々子さん、オールアップです」
男性スタッフの一人が、そう言うと、隣にいた女性スタッフが、準備していた大きな花束を奈々子へと渡した。拍手はまだ鳴り止んでいない。
「ありがとうございました」
奈々子は、そう言いながら、監督と握手をすると、まるでこの瞬間を待っていたかのように、多くのメディアカメラマンが周囲を取り囲み、眩しいくらいのフラッシュが、奈々子へと向けられた。
多くの関係者と挨拶を交わした奈々子は、マネージャーの浅野とともに、この後に予定している記者会見までの時間を、二階の控え室で過ごすため、花束を手に撮影場所を後にして歩き始めた。一階ロビーの脇では、その会場設営スタッフが、多くの椅子を並べ始めている。
「頑張って、あともう少し」
隣を歩く浅野が、奈々子に声をかけた。
(あともう少し)
昼間に祐太郎が送ってきたメッセージを、奈々子は思い出していた。

この日、祐太郎は、すでに愛車のBMWミニを、会社内にある月極パーキングスペースに駐車した後、自宅のワンルームマンションへ戻っていた。通常、タクシードライバーは、会社が事前に決めた、月に十回前後の隔日勤務をこなすことになっている。よって、休日は週に二日から三日のペースでやってくる計算だ。
明日の日曜日も、休日となっている祐太郎であったが、当初から、予定は何も入っていない。今晩、テレビの報道番組が生中継する奈々子の記者会見、そして明日になれば、奈々子と会うことになるかもしれないことを考えると、好都合であった。
「では、弊社グランステージ所属、新藤奈々子より、今回の休養につきまして記者会見を行います。まずは、本人から説明をさせていただきます」
テレビには、記者会見に臨む奈々子、そして両サイドには関係者が着席している様子が映っている。そして、司会者は、奈々子に発言を促した。
「まず、関係者の皆さまには、今回の休養申し出を温かく受け入れていただきましたこと、深く御礼申し上げます。そして、今回このような、報告の場を急遽設けていただいたスタッフの方々、お集まりの報道各社の皆さまには、重ねてお詫びと御礼を申し上げます。今後、女優業へのさらなる精進のため、多くの学びと経験を得るために、半年間という、この貴重な時間を活用したいと考えています・・・」
そして、奈々子は最近のマスコミで、さまざまな報道がされていることについて、そのすべてが表面的、一時的な情報に基づく妄想に過ぎないことも付け加えた。
「では、お集まりの方々からの質問を受け付けます」
司会者の言葉に、多くの報道陣が手を上げると、予想以上に多くの質問が、容赦なく奈々子に降りかかっていた。おそらく、事前に用意した想定問答以上であったに違いない。
祐太郎は、そのひとつひとつを熱心に聞き入っていた。
「昨日、新藤さんと連絡がとれなかった空白の時間帯だと思われますが、ある情報では、新藤さんの乗った車が、青山付近でカーチェイスをしていたという話もあるようですが・・・」
この記者の質問に、祐太郎は驚いて、思わずテレビ画面を凝視した。
「腕のいい運転手さんだったから、乗り心地が良くて、思わず後ろでウトウトしていた時間帯だと思います。まさか、そんなことがあったなんて。最近は、あおり運転が多いそうですから、偶然に遭遇したのかもしれませんね」
祐太郎は、落ち着いて微笑む奈々子の返答を聞きながら、女優ならではの貫禄を感じていた。
「それでは、次で最後の質問とさせていただきます」
司会者はさらに、会見が始まってすでに、一時間半が経過しており、終了予定時間をオーバーしていると伝えた。
「はい、では最後の質問をどうぞ」
そして司会者は、一人の男性フリージャーナリストを指名した。
「宮野氏との熱愛が発覚する少し前、新藤さんと同じ事務所の新人女優が、宮野氏とお付き合いしていたという噂がありました。それについて何かコメントいただけますか?」
この質問を聞きながら、奈々子は一瞬固まったように、無表情になっていた。しかし、すぐに平静さと微笑みを取り戻し、話しはじめた。
「後輩女優に、そういう噂があったことは承知していました。ただ、私の熱愛報道は、単なる報道側の過熱です。確かに、数回お食事をご一緒しましたが、すべてビジネスのお勉強をさせていただく目的でのこと。それ以外の他意はございません」
奈々子がそう言い終わったところで、司会者から会見の終了が告げられた。
祐太郎は、すでにCMへと切り替わっているテレビの画面を見ながらも、頭の中では別の事を考えていた。
「もしかして、奈々子さんは意図的に宮野に近づいたのか・・・」
祐太郎は、そう言いながら、テレビの画面を、ただ見つめていた。

「あの、新藤さん」
記者会見場となっていた市役所一階ロビーを後に、事務所スタッフ数名に囲まれながら、玄関先のワゴン車へ向かっていた奈々子は、背後から駆け寄ってきた男性フリージャーナリストに呼び止められた。
「すみません、ちょっとだけ。これを・・・」
男はそう言って、自分の名刺を片手で奈々子の前に差し出した。
「何かあれば、連絡を・・・」
男の声が、歩き出した奈々子の背後で聞こえた。
ワゴン車に乗り込んだ奈々子は、手にしたままの、渡された名刺を見つめた。
「確か彼は、最後に質問したフリージャーナリスト」
奈々子はそう言うと、名刺に書かれた瀬戸翔太の文字を見つめた。かつて一度だけ、テレビの情報番組で一緒に仕事をしたことがある。四〇歳は過ぎているだろうか、海千山千の雰囲気を持つ風貌が、とても印象的だったのを覚えている。
奈々子は、先ほどの瀬戸が発した質問を思い出していた。鋭いところを攻めていて、少々意地の悪さも感じたが、その情報収集力は、評価できると奈々子は好感を持った。
「もしかして、彼は宮野の何かを知っていて、そのことを追っているのかも・・・」
ひとり言のようにつぶやいた奈々子を乗せて、ワゴン車は、深夜の狛江市街を抜け、東京都内へと、世田谷通りを走り始めていた。

「ブ~、ブ~」
部屋のベッドで横になっていた祐太郎は、携帯電話のバイブレーションに気づいた。
条件反射のように、枕元からサッと手にした画面には、通信アプリの新着メッセージが届いているサインが見てとれた。予想通り、奈々子からである。
(明日、日曜日は夕方まで仕事だけど、夜はフリーよ。会える?)
祐太郎は、待ってましたとばかりに、返信文を打ち始めた。
(どこで、何時くらい?)
(私の自宅へ、夜八時くらいに来て。直接、ドアの前まで)
(了解)
内心、祐太郎は、もっと多くの言葉を使って、文字での会話を楽しみたいと思ったが、奈々子が今日を、どれほど気丈に振舞い、過ごしたのかを考えると、この程度のメッセージで留めておくべきだと感じた
「明日か・・・、でも、夜まで暇だな~」
これまで、祐太郎は特定の彼女と交際をしたことがなかった。公立の中学校を卒業した後は、新宿区内の男子高校へ進み、大学時代の四年間は自動車部での活動に、青春の全てをかけてきたのだった。
趣味といえば、愛車のBMWミニを使って、都心を離れた鎌倉や逗子、葉山あたりまで足を延ばし、ひとり散策するくらいだった。それ以外の時間は、部屋で海外ドラマや映画を見るといった、女性との接点がほとんどない暮らしをしていた。
「そうだ、手ぶらで行くのも、ちょっとな~」
祐太郎は、そうつぶやきながら、明日の行動予定を考えていた。

「奈々子はいったい、何を企んでいるんだ?」
二子玉川の自宅マンションから、国道二四六号線を渋谷に向かって走る白いベンツ。その後部座席には、ひとりつぶやく宮野の姿があった。
日曜日の早朝五時、あたりはまだ暗い。この先、三軒茶屋から首都高速に乗り、三郷ジャンクションから常磐道に入った後は、谷和原インターへと、車はスピードを上げて疾走していた。
宮野は最近になって、自分が主催する接待ゴルフについては、茨城県常総市にある名門ゴルフ場をよく使用している。というのも、このゴルフ場創設者は、宮野が経営するエムケーフォースの株式上場に向けて、IPO(新規株式公開)の主幹事をしている東西証券の創設者でもあったからである。今日は、その東西証券役員と、衆議院議員秘書を招いてのツーパーティーで、コースを回る予定となっていた。
そして、宮野はいつもパーティーのメンバーには、必ず女性を参加させることにしていた。今日の組み合わせは、宮野のプレイする組には東西証券の役員、そして専属ドライバーである坂本のプレイする組には、衆議院議員秘書が入り、各組それぞれに、女性がひとりずつ参加することになっている。
今回のように、接待費処理がデリケートなメンバーを誘った場合は、相棒として専属ドライバーである坂本をメンバーに加えることが多かった。つまり、宮野自身の判断で接待費用の処理をするためには、自社の役員を含めた社員は極力排除する必要があったからである。よって坂本は、宮野の個人的な秘書役という業務も担っていた。
午前六時。宮野の乗った白いベンツは、ゴルフ場のエントランス前で、静かに停まった。
後ろのトランクから、キャディバッグを二つ下ろすと、そのまま坂本はパーキングスペースへと向かった。出迎えのゴルフ場スタッフが、慣れた手つきで二つのバックをクラブハウス前の専用ラックへと運んでいる。
フロントで先にチェックインを済ませた宮野は、ロッカールームで着替えを済ませ、敷地内にある、ネットがない開放式の打ち放し練習場へと向かった。
すでに明るくなった早朝の青空のもと、あたり一面、薄く霞に包まれた緑の林が、遠く正面に見える。
宮野は、思わず深呼吸しながら、コインをマシンに投入すると、練習ボールをカゴに入れて、打席スペースへと進んだ。
「おはようございます」
宮野がそう声をかけた先には、すでに打席に入ってドライバーを気持ちよくスウィングしている東西証券の役員、河波正治が微笑みながら手で挨拶をした。さらにその奥には、河波が行きつけにしており、最近になって宮野も紹介されて訪れたことのある銀座のクラブ、シルバーキャットのオーナーママ、芳野由紀子がいた。オーナーママと言っても、年齢は若くまだ四十代後半と聞いている。
「宮野さんのお誘いで・・・、今日は久しぶりのコースなのよ。足を引っ張ったら、ごめんなさいね」
芳野は、上品な口調でそう言いながら、真顔でスウィングを始めていた。そんな彼女を今日のゴルフに誘ったのは、宮野ではあるが、ここまでの移動については、河波の運転手付き社有車で、ふたり一緒に来ているはずだった。
「こちらでしたか、おはようございます」
宮野の背後から声をかけてきたのは、衆議院議員秘書の若槻英男である。今日は、秘書として仕えている代議士が地元へ戻っており、その間は、地元事務所に所属する秘書が対応していることから、今日の参加となっていた。
「若槻さん、先日は・・・、本当に失礼しました」
宮野は、若槻の声に振り返るなり、声のトーンを低くしてそう言った。
「いや~、先生も表には出していませんでしたが、内心相当にカンカンでした。でも、なんとか鉾を収めていただきましたよ。大丈夫です。もう安心して下さい」
若槻も、小声でささやくように答えた。
宮野の会社は、先日、キャッシュレス決済アプリを、新期参入組としてリリースしたばかりである。そこで、後発組であっても、その存在感を官公庁へ示すために、経産省の進めるキャッシュレス普及活動に、新藤奈々子をキャンペーンガールとして起用する案を、若槻を通じて代議士へと根回ししていたのだった。
しかし、奈々子が事務所を通じて、急に辞退する旨を経産省に申し出たため、寝耳に水の関係者は、その面子を失くしてしまっていたのである。
「若槻さん、ちょっとドライバーの打ち方ですけど、アドバイスしていただけます?」
やや甘えたように話す女性の声は、宮野が手配したハイヤーで、若槻とともにゴルフ場へやってきた柏木真由子だった。真由子は、夜の飲食店でアルバイトをしながら、アプリ開発を学ぶ専門学校生である。宮野はその専門学校で非常勤講師を務めているのだが、かねてから宮野のファンで、授業の後でも積極的に宮野へ質問をしていた真由子とは、ほどなく一緒に食事をする間柄となっていた。そして時折、宮野からの依頼でパパ活と称し、今では、さまざまな場所に出向いて、高収入の仕事をしている。若槻とは、これまで何度も飲食を共にするなどして、すでに親しい仲となっていた。
「では、みなさん、そろそろスタートのご準備をお願いします」
遅れてやってきた坂本が、メンバーに声をかけながら、クラブハウス前に集まるよう、促している。
そして、清々しい緑と空気の中、メンバーが向かう先に佇むクラブハウスの背後には、快晴の青空に浮かぶ白い雲が、春一番の爽やかな風に吹かれ、なびくように流れていた。

同日の午後一時。
祐太郎は、新宿の街を久しぶりに歩いていた。そして都内でも有名な新宿三丁目の老舗デパートへと入っていった。日曜日の昼下がり、デパートの中は多くの人が行き交っている。これまで、数回しか訪れたことがなく、買い物にも不慣れな祐太郎は、ひと通り女性向けの商品を扱うフロアを回ったものの、結局何も買うことなく、早々に建物の外に出てしまった。
「やっぱ、苦手なんだよな~」
大学時代にホワイトデー用に、義理的なプレゼントを買って以来、個人的なプレゼントを女性にしたことがない祐太郎は、そう呟きながら、あてもなく西新宿方面へと歩いて行った。
新宿三丁目から甲州街道へ入り、新宿駅南口を通過すれば、その先が西新宿である。途中のファッションビルにある専門店街を見ても、これはというものが見つからない。
あてもなく歩き回ってしまった祐太郎は、新宿中央公園を横目に、副都心エリアに林立する高層ビル群を眺めていた。この近くには、愛車の車検やメンテナンスを任せている自動車販売会社もあり、かつては休憩がてら、ヒルトンホテル一階のラウンジでひとりランチをしたこともある。
「そうだ、あれがいいかも」
そして祐太郎は、何かを思いついたのか、足早にヒルトンホテルのロビーへと入って行った。
「そう、この香り・・・」
このホテルロビーは、中に入るなり爽やかで優しい香りに包まれている。
かつて、この香りに魅了された祐太郎は、いつか彼女になった人へ、こういった香りのエアアロマを贈りたいと、何気なく感じたことを思い出した。そして、そのひと瓶を手に取ると、祐太郎は満足そうに笑みを浮かべて、キャシャーへと向かった。

「ナイスショット」
ゴルフ場では、河波が放ったドライバーショットの行方を見ながら、宮野が声を張り上げていた。
すでに午前のハーフを終えた後、クラブハウスで昼食を済ませ、午後の最終十八番ホールへと進んでいた宮野たちは、多少の疲れを感じながらも、順調にコースを終えようとしている。
「フェアウェイど真ん中、もうワンハーフできるくらいの勢いですね」
宮野が得意とする褒め殺しトークと分かっていても、河波は機嫌よく手で合図しながら、次の宮野へティーグラウンドを譲った。
「ナイスショット。宮野さんこそ、まだ余力は十分そうですな」     宮野のドライバーショットを見届けた後、河波が言った。
「いえ~、飛距離は短くなってますよ。河波坦務ほどでは」
河波の言葉をうけて、宮野がそう言うと、芳野は笑いながらティーを芝生に刺して、素振りを始めた。スポーティーなミニスカートから延びた細く白い肢体が、眩しいほど目に飛び込んでくる。
「ママは変わらず、セクシーですね」
ささやくような宮野の声に河波は、目を細めながら笑みを浮かべた。
「だがな、もう歳かな。以前なら、このあと彼女を誘うところなんだが、もうそんな元気はないよ。ハッハッ」
自嘲気味にそう言った河波は、既に六十歳を過ぎているものの、見た目はまだ五十歳代で通るほどに、顔は艶やかである。多くの代議士たちに対し、個人的な投資指南役もしている河波であるが、銀座のオーナーママである芳野へも、投資に関する多くの助言をしてきたのだった。かつては、お店の顧客としてだけでなく、投資アドバイスもしながら、芳野の気を引こうと、河波が積極的にアプローチをしていたことは、宮野も知っていたが、このふたりが、それなりの仲になったのかどうかまでは、いまだ確信が持てずにいた。
河波とそんな会話をしていると、次のパーティー三人が、宮野たちのいるティーグラウンド横にカートを停止させ、キャディバッグからドライバーを取り出しはじめていた。
坂本は、遅れて最後にドライバーを取り出すと、ティーグラウンドにいる宮野に向けて、微笑みながら軽く会釈をした。順調に進んでいるというサインである。
宮野が、今日のゴルフを主催した一番の目的は、議員秘書である若槻への慰労であった。河波からの紹介をきっかけに、宮野は若槻に急接近し、経産省ヘキャッシュレス・キャンペーンガールの提案を画策した。しかし、奈々子から突然ともいえる辞退を受けたことで、根回しの中心的役割を果たしてきた若槻に対しては、どうしても機嫌をとっておく必要があった。
「さすが若槻さん。調子いいみたいですね」
坂本からスコアカードを見せてもらった宮野は、若槻へ近づくと、そう言った。
「いや~、まぐれですよ。ドライバーもパットも普段はこんなに良くないんだけど」
「柏木さんと一緒だからじゃないですか~」
宮野が冗談っぽく言うと、若槻は照れたように真由子を見つめた。
「お帰りのハイヤーは、ご帰宅されるまで時間無制限で借りてますから。どうぞご自由にお使い下さい」
宮野は笑みを浮かべながら、若槻に小声でそうつぶやくと、足早にフェアウィへと走って行った。その先には、ふたり談笑しながら、カートに乗って前方をゆく河波と芳野の姿があった。

第三話 おわり

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