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アラブから借用したイギリス民主主義の象徴と、アラブを裏切ったイギリス

 昨年10月7日にハマスの奇襲攻撃が行われると、イギリスのスナク首相は素早くイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相の前でイギリスがイスラエルに絶対的な支援を与えることを約束した。イギリスのイスラエル支持の姿勢の背景にあるのは、アメリカと同様に国内ユダヤ社会の動静に配慮し、また武器産業の利益を擁護するなどの目的もあるだろう。イギリスでもイスラエルを批判すれば即座に「反セム(ユダヤ)主義」という言葉が返ってくる。2016年12月にイギリスのメイ首相は「イスラエルが繁栄する民主主義、寛容の光であり、世界の他の地域への模範である」と語り、またイスラエルを「すべての宗教と性別の人々が法の観点から自由で平等な国」とイスラエルによるアラブ人差別を無視するかのように言い切った。

 2月29日に行われたイギリス議会下院(庶民院)の補欠選挙(イギリス北部ロッチデール)で、元労働党議員のジョージ・ギャロウェイ氏(69歳)が圧勝した。ギャロウェイ氏は、イスラエルのガザ攻撃を強く批判し、それを選挙の争点にしていた。彼はイギリスのイラク戦争参戦に激しく反対し、そのためにブレア党首の労働党から除名された。彼は現在「イギリス労働者党(Workers Party of Britain)」(2019年創設)の党首だが、彼の地滑り的勝利の背景にはイギリス政府がイスラエルの戦争を支持することに対する選挙民の強い不満や反発があったことも確かだ。特にロッチデールの住民の18%はイスラム教徒で、パレスチナに対する強い同情がある。

パレスチナ支援集会への参加を呼びかけるジョージ・ギャロウェイ氏 https://twitter.com/georgegalloway/status/1737968972492927243


 イギリス国会議事堂のタワーの建築様式はシリア・アレッポ・大モスクの破壊されたミナレット(尖塔)をモデルにしたことはあまり知られていないだろう。フランスのノートルダム大聖堂、またアメリカ・ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂などのゴシック様式は、元々エルサレムの岩のドームなどの建築を参考にしたものだ。

イギリス議事堂 https://www.teachingenglish.org.uk/teaching-resources/teaching-secondary/uk-history-and-literature/magna-carta/british-parliament-0 議会の建物がアラブの建築様式であることは https://www.mei.edu/publications/stealing-saracens-how-islamic-architecture-shaped-europe などを参照


 このようにイギリス民主主義は、そのシンボル(議事堂)をアラブの建築様式から借用したが、イギリスのアラブ支配は、この地域の混乱や紛争を招いてきた。その種子は、第一次世界大戦中のイギリスによる「三枚舌外交」にあることはよく知られている。イギリスはアラブ地域に矛盾するフサイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という国際的約束を行ったが、特にバルフォア宣言は、当時パレスチナの人口の9割を構成するアラブ人に民族自決権を与えるものではなく、人口の10%にすぎなかったユダヤ人に民族自決権を認めたものだった。

イギリスにアラブ地域を分割する資格など当然ない 映画「アラビアのロレンス」より https://www.britannica.com/topic/Lawrence-of-Arabia-film-by-Lean


 イギリスの委任統治は1920年に始まったが、初代パレスチナ高等弁務官のハーバート・サミュエルはユダヤ人の熱心なシオニストで、ユダヤ人の入植を支援した(在任は1925年まで)。1937年に後に首相となるチャーチルはパレスチナ人に対して人種主義的な発言をし、「飼い葉桶の中の犬が長い間そこで生活していたとしても、飼い葉桶に対する最終的な権利をもっていることに同意しない。私はその権利を認めない。」と発言した。

シオニストに共感していたチャーチル 「もし[ユダヤ人]シオニスト技術者たちがヨルダン川を電化に利用していなかったら、アラブ人は永遠に暗闇の中に座っていただろう。今、彼ら[アラブ人]は光を求めてパレスチナに群がっている。」 https://www.facebook.com/CFIUK/photos/5596867350360890/?paipv=0&eav=AfYBk2h1MZLhfm81NOAzTeaDgDvaelSTyx6WZs9MPzeZ2sWgN244zXFHN-CKz3zC6mc&_rdr


 パレスチナでは、1936年から39年にかけてのイギリス植民地主義への抵抗である「アラブの反乱(Arab Revolt)」があった。「アラブの反乱」は、ユダヤ人の入植者の増加をもたらしたイギリスのパレスチナ統治への反発や抵抗として起こった。シリアやパレスチナなど東部アラブ地域におけるイギリスやフランスの委任統治支配、シオニストの入植活動に対して武装解放闘争を行っていたイスラム聖職者のイザッディーン・アル・カッサーム(1882~1935年)が1935年にイギリスのパレスチナ警察によって殺害されると、アラブの民族感情は新聞、学校、言論界などで煽られて噴出し、大規模な暴動に発展していった。現在、ハマスの軍事部門は「カッサーム旅団」と自称しているが、このイギリスによって殺害されたカッサームの名前に由来している。

イスラエルのガザ攻撃に反対する人々 ロンドンで 昨年10月21日 https://www.aljazeera.com/gallery/2023/10/21/londons-march-for-palestine-sees-a-100-000-calling-for-a-ceasefire


 第二次世界大戦中、パレスチナのユダヤ人たちはイギリスがユダヤ人の移住を制限するなど、イギリスの冷淡な姿勢にもかかわらず、イギリスの戦争努力に協力し、1944年9月には2万7000人のユダヤ人部隊が創設された。また、パレスチナのユダヤ人による産業も発達し、この時期ユダヤ人たちはイギリス軍のために対戦車地雷も製造するようになっていた。他方、パレスチナのアラブ人たちもおよそ2万3000人がアラブ人部隊としてイギリス軍に登録するなど、イギリスは自らの委任統治の下に置いたユダヤ人、アラブ人双方をその戦争努力のために利用していた。

イギリス人女優 エマ・ワトソン 彼女にはパレスチナ人の境遇に強い同情がある https://www.forbes.com/sites/natalierobehmed/2017/08/16/inside-emma-watsons-14-million-year/?sh=6ddaa4256ed3


 イギリスには、イスラエルの占領や入植地の拡大、イスラエルによる人権侵害、さらに昨年10月のハマスの奇襲攻撃や、それに始まるイスラエルのガザ攻撃によって3万人以上のパレスチナ人が死亡するなど、現在のパレスチナ問題の混乱や昏迷、紛争に対して重大な歴史的責任を負っている。イギリスには公平なパレスチナ和平を進めなければならない仲介者としての道義的使命があることは言うまでもない。


イギリスの三枚舌外交 https://twitter.com/takumama339/status/1710875697806516229



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