ビートルズの革命 そしてルーシーは宇宙を行く ~Give Peace a Chance
19日放送の「映像の世紀バタフライエフェクト ビートルズの革命 そしてルーシーは宇宙を行く」は、「青の時代」と呼ばれるビートルズ後期の活動を紹介し、東側陣営の自由化に及ぼした影響を探るものだった。
1966年にライブ活動を終えたビートルズはメンバーそれぞれが自由な発想から多様な音楽の道を探るようになった。クラシック、シュールレアリスム、古今東西の音楽などを採り入れていった。次第に高度な音楽表現がされていった。40人のオーケストラがレコーディングに参加した「A Day in the Life」はビートルズの最高傑作と評価する人も多い。
LSDなど薬物も接種するになったビートルズはベトナム戦争反対、既存の秩序に異を唱えるヒッピー文化にも影響を与えるようになる。1967年8月、マネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の過剰摂取で急死すると、ビートルズはアップル社を設立するなど、音楽ビジネス以外にも乗り出すようになっていた。また、音楽分野でもエプスタインはビートルズが政治との関わりを控えるように促していたが、1968年11月アップル社から初めて出した「The Beatles」(ホワイト・アルバム)では「Back in the USSR」がフィーチャーされた。
ソ連に帰ってきた
これがどれだけ幸せか、君にはわからないだろう
ソ連に帰ってきたんだ
長く不在にしてたから、随分変わってしまったけど
いやぁ、故郷はいいもんだ
荷物を解くのは明日にして
ハニー、電話も無視しよう
https://lyriclist.mrshll129.com/beatles-back-in-the-ussr/
ソ連ではビートルズの音楽によって人々の意識が自由化に向かうことが恐れられ、彼らの音楽は禁止されたが、海賊版のレコード、西側の短波放送などを通じて若者たちの間に浸透していった。若者たちは公衆電話の部品などを使ってエレキギターを自分で作り、髪を伸ばすようになる。「ビートルズは音楽的な安らぎの源だっただけでない。スターリン主義を思い起こさせる退屈で無意味な儀式とは違う僕ら自身の世界を創る手助けをしてくれた。表向きは共産主義国家の要求に従って暮らしながらも僕らはビートルズを信じることでその一部を静かに拒否していた。」(ソ連のビートルズ・ファンの回想)
他方、ビートルズ内部では次第に亀裂が生じ、1968年8月、リンゴ・スターがビートルズからの脱退を表明、またジョン・レノンはオノ・ヨーコと出会い、ソロ活動を始める。有名になりすぎたビートルズはメンバーが相互に不満をぶつけるようにもなった。1969年ジョン・レノンは大英帝国勲章をビアフラ戦争などイギリスの戦争への関与を理由に返還した。対立が生じてもビートルズは楽曲「Here Comes the Sun」を含むアルバム「Abbey Road」などの傑作を生んでいった。ビートルズの解散が迫ると、ポール・マッカートニーのところに亡くなった母親が現れ、「心配しなくて、あるがままにとLet it Be」と語ったという。それが最後のシングル「Let it Be」となり、1970年4月、ビートルズは解散を発表する。活動期間は8年だった。
1980年12月8日、ジョン・レノンはファンを名乗る男の凶弾に倒れる。既存の秩序を壊したビートルズの音楽には若者たちの心の中に自由への希求、独裁・権威主義への反発、反戦の想いを育んでいった。
番組からは離れるが、ジョン・レノンに反戦の考えを促したのはイギリスの数学者で哲学者のバートランド・ラッセル(1872~1970年)だった。 ビートルズが1966年に日本にやって来た時、6月29日に行われたヒルトン・ホテルでの記者会見で「名誉と財力を得て、つぎに求めているものは?」という質問に対し、「なによりもまして平和(ピース)がほしい」と答えた。実はビートルズのポール・マッカートニーはその直前の6月18日にイギリスの数学者で哲学者のバートランド・ラッセル(1872~1970年)に会って平和や反戦を説かれ、それを仲間に伝えていた。
1969年にラッセルはジョンとヨーコにベトナムとビアフラでの戦争に反対することを勧めたが、それが大英帝国勲章の返還や、1969年6月と9月に行われた彼らの「平和のためのベッドイン」ともなった。 作家の広田寛治氏によれば、1970年代しばらく日本でヨーコ・オノとともに暮らしたジョン・レノンは俳句や江戸時代の臨済宗の僧侶、白隠・仙厓の世界に傾倒したそうだ。これらの俳句や禅の世界に接して平和とは一人一人の心の中にあると確認したのかもしれない。圧迫するような既存の秩序に反発しながら人の心に平和や安寧を築くのはビートルズの音楽が世界にもたらした革命だったに違いない。