「イブラヒムおじさん」が教えるイスラムとユダヤの共存
フランス映画の「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(2003年)は、貧しいマイノリティーが多く住む1960年代のパリの裏町が舞台で、ユダヤ人の少年モモは、トルコ人で、クルアーンを人生の糧とする、敬虔なイスラム教徒の老人イブラヒム(オマー・シャリフ演ずる)が営む食品店に買い物に行っては万引きをくり返していた。モモの行為に気づいていたイブラヒムは万引きをしていたことを知っていたとモモに告白し、倹約の仕方を教える。やがて二人はイブラヒムの故郷であるトルコを一緒に訪ねるほど親しくなる。パレスチナ問題などで、ユダヤとイスラムの対立は強調されがちだが、モモはイブラヒムに敬意をもつようになり、二人は宗教の相違、年齢を乗り越えて互いに理解し合うようになっていく。
イブラヒムおじさんはモモに言って聞かせる。「笑ってごらん。幸せだから笑うんじゃなくて、笑うところに幸せがくるんだよ。」「宗教は考え方の一つでしかない。」映画には「なんで戦争するのよ。肌の色が違ったってどうでもいい。一緒に生きていこうよ」という歌も挿入される。
http://www.jicl.jp/now/cinema/backnumber/1213.html
映画の原作と脚本は、移民・難民が数多く住み、イスラム系人口が600万人にも達しそうなフランス生まれの劇作家のエリック=エマヌエル・シュミット(1960年生まれ)だが、彼に様々な知識を与えてくれた祖父と、クルアーンの教えを組み合わせてこの作品を書き、フランスでも頭をもたげる狭量なナショナリズムを克服しようとした。
フランス南部の都市マルセイユは、紀元前600年頃につくられたギリシアの植民市マッサリアが起源となっているとされるが、それ以前からフェニキア人の活動拠点になっていた。19世紀にはフランスの「帝国の港」として機能し、バルバリア海賊の排除(1815~35年)、アルジェリア征服(1830年)、スエズ運河開通(1869年)にフランスが乗り出す拠点となった。現在、マルセイユの人口は160万余りで、1950年が75万人余りだから倍増したことになり、北アフリカなどからの移民によって人口が膨れ上がってきた。
地中海に面するこの都市は、20世紀に様々な難民・移民を受け入れてきた。オスマン帝国からアルメニア人、またムッソリーニのファシズムに反対するイタリア人、さらにフランコの独裁政治を逃れてきたスペイン共和派の人々などが避難の地として移住してきた。アルジェリア独立戦争では、「ピエ・ノワール」と呼ばれるアルジェリアにいたフランス人などヨーロッパ系の人々もマルセイユに移住してきた。
マルセイユの人口構成は第二次世界大戦後に多様になってきたが、特に1960年代、70年代、ムスリムやユダヤ人がフランスに独立後のモロッコ、チュニジア、アルジェリアなどから移住してきたことによってその傾向は顕著になった。
現在、ムスリム人口はマルセイユの総人口の20%から25%を構成するが、ユダヤ人も北アフリカ出身者を中心に7万人から8万人が居住している。
マルセイユでは、ムスリムとユダヤ人たちとの共生が進んでいて、ムスリム地区にある野外市などでもユダヤ教徒のシンボルであるキッパを頭に付けて歩くユダヤ人も見られている。北アフリカでのイスラム・ユダヤの共存形態がそのままこのマルセイユの街にもち込まれたかのようだ。マルセイユでは、ムスリムたちは社会にとけ込み、他のフランスの都市よりも人種的差別に遭遇することも少なく、それもユダヤ人たちとの共存を後押しする要因となっている。ユダヤ人指導者が新たなモスクの開所とか、イスラムの祝祭(イード)とか、ラマダーンの行事に出かけ、協力する姿勢を見せ、またマルセイユの大シナゴーグ(ユダヤ教の寺院)では、ムスリムの指導者たちをユダヤ教の新年祭りであるローシュ・ハッシャーナーに招いたりする。
マルセイユは、反人種主義の運動「SOS・ラスィスメ(SOS Racisme)でもムスリムとユダヤ人が連帯し、フランスの極右「国民連合(旧国民戦線)」に対抗する声を上げている。民族・宗派問題を解決し、この都市の安寧を保つために設けられた「マルセイユ・エスペランス(マルセイユの希望)」と呼ばれる協会があり、あらゆる宗教コミュニティーの指導者たちが集まって、それぞれの宗教行事を支援するようになっている。
地中海地域の異なる宗教の共存は、アンダルスなど過去の歴史の上だけではなく、現在でも見られる現象であり、対立の発想に捕らわれ、ガザ攻撃を提唱するイスラエルの極右勢力に教訓を与えるものだ。
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