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人々の意志を武力で屈服させることはできない ―アルジェリア独立戦争のガザへの教訓

 イスラエルはガザ地区の住民たちを軍事力でねじ伏せ、彼らをハマスから離反させるつもりであることは昨日書いた。イスラエル軍はガザ住民たちの苦境をもたらしたのはハマスの責任だと思い込ませるための無差別で、大規模な攻撃を行っている。しかし、凄惨とも思えるほどの軍事力の行使は人々を屈服させることができないばかりか、住民たちの闘争心や抵抗の意志をいっそう強化させ、かえってハマスへの支持を高めることになると思う。

 アルジェリアでのフランスの強権的支配は、いまのイスラエルのガザでの過酷な戦いを彷彿させ、イスラエルはフランスのアルジェリアでの体験に学ぶべきだ。

アルジェリアの首都アルジェでのガザ支援デモ https://bnnbreaking.com/conflict-defence/algerias-deep-rooted-solidarity-thousands-rally-for-gaza-amid-conflict/


 第二次世界大戦では13万4000人のアルジェリア人たちが自由フランス軍に参加し、18、000人が戦死した。アルジェリア東部のセティフの町では1945年5月8日、ナチス・ドイツに対する戦勝パレードに5000人のアルジェリアのムスリムたちが参加を促されたが、彼らはパレードで戦勝を祝うのではなく、アルジェリアに対するフランス支配の終焉を叫ぶようになった。鎮圧のためにフランス軍やフランス人入植者が動員されたが、入植者102人が殺害されると、続く2週間でフランス軍、警察、入植者たちは45,000人のアルジェリア人たちを虐殺した。10月7日以来のガザ地区の犠牲者が18,000人ぐらいだからフランスの弾圧がいかに過酷であったかがうかがえる。

ガザで「アルジェリア万歳!」 https://www.newarab.com/news/palestine-too-sacred-accept-normalisation-algerian-president-says


 フランス人入植者たちはアルジェリア人たちをあたかも「害虫」のように非人間的に扱い、1954年11月に独立戦争が開始されるまでに数千人のアルジェリア人が殺害されたと見られている。さらに、独立戦争は全人口の2割に当たる150万人のアルジェリア人が命を落とすほど凄惨なものだったが、アルジェリア人たちの強固な抵抗の前にフランスは結局アルジェリアに独立を認めざるを得なかった。1945年5月のセティフの弾圧は9年間の比較的平和の時期をつくることになったが、アルジェリア人を屈服できなかったばかりか、彼らの抵抗の意思をいっそう煽ることになった。

映画「アルジェの戦い」 アマゾンより


 130年間のフランスの植民地主義支配を受けたアルジェリアは、同様にイスラエルの植民地主義の下で不自由で、経済的にも困難な生活を送るパレスチナ人の心情や、彼らが解放されたいという思いがよくわかるようだ。1977年に142人の乗客と14人の乗員を乗せた日本航空パリ発東京行きの旅客機が日本赤軍5人によってハイジャックされた事件が発生し、バングラデシュのダッカに強行着陸し、日本国内にいる活動家6人が釈放され、身代金が支払われた。活動家の釈放との交換で人質も徐々に解放されて、旅客機は最終的にはアルジェリアに向かい、事件は一応の解決を見た。当時の活動家の釈放や身代金の支払いに応じた福田赳夫首相が「人の生命は地球より重い」と述べた言葉は、当時の流行語のようにもなったが、超法規的な措置に反発した法務大臣は辞任した。

ダッカ事件で人質解放交渉に当たる石井一運輸政務次官(当時) 1977年 https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000257839.html


 現在でもハイジャックの実行犯や釈放された活動家のうち5人は逃亡しているが、アルジェリアは日本赤軍のパレスチナ支援の活動に理解を示して、彼らを拘束することはなかったし、実行犯たちもアルジェリア政府の方針や、彼らに対する対応はあらかじめわかっていた。アルジェリアにはパレスチナ人たちに対する強い同情があり、アルジェリア政府もパレスチナ人に共感する日本赤軍の活動に一定の理解を示していた。

 フランスはアルジェリアを支配するに際してローマ帝国の復活を唱え、アルジェリアが独立した時、フランスの植民者はアルジェリア全人口の9分の1を抱えていた。1960年代前半にヨーロッパ勢力によって支配されていたアラブの土地はアルジェリアとパレスチナだけであった(イスラエルを実質的に支配していたのは東欧出身のユダヤ人たち)。

 自民党の代議士であった宇都宮徳馬氏は、アルジェリア独立戦争が始まった1954年の翌年である1955年にアルジェリアを訪問し、アルジェリアへの支持の姿勢を鮮明にした。彼は、元大蔵大臣の北村徳太郎氏、社会評論家の淡徳三郎氏たちを誘って、独立戦争を支えるための「日本北アフリカ協会」を設立した。日本政府は、独立戦争がピークであった時に、アルジェリアの独立運動を担ったFLN(民族解放戦線)の極東代表部の東京での設置をフランスの猛反対があったにもかかわらず受け入れた。少なからぬ日本人がフランスに抑圧されていたアルジェリアの独立を支援したように、日本人には現在イスラエルの攻撃によって極めて困難な状態にあるガザ地区住民たちの境遇に関心をもってもらいたい。

風成の人 -宇都宮徳馬の歳月- https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=4655721


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