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ヨーロッパのナショナリズムではなく、中世イスラム・スペイン時代の多様性に傾倒したロルカ

 フランスでは6月27日に17歳のアルジェリア系の少年が警官に射殺されたことを契機に全土で発生したデモや暴動もようやく小康状態になった。発砲した警官を支援するオンライン募金は極右番組のコメンテーターが始めたものだが、3日までに98万6000ユーロ(約1億5600万円)超になった。それに対して、殺害された少年の遺族に対する募金は18万9000ユーロ(約3000万円)だった。ここにムスリムやアフリカ系などの移民に対して寛容性のないフランス社会の特質を見るようで、また募金額の多寡は白人と移民の間の経済格差をも表すものだ。

 19世紀以降発展したスペインのナショナリズムは、ムスリムやユダヤ人、さらにはジプシーの文化的影響や歴史的過去を排除するというもので、非白人・非キリスト教の価値観を徹底的に嫌うという点では現在のフランスの極右の主張や姿勢に似ている。

 アンダルシア・グラナダで生まれた詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898~1936年)がペルシアなどイスラム世界の詩作に傾倒したのも、そうしたスペインのナショナリズムに反発したことも一つの理由としてあったのだろう。1931年にロルカはインタビューの中で、グラナダで生れたことが迫害された人々に対する同情や理解を自分にもたらしたと語っている。ジプシー、黒人、ユダヤ、ムーア、これらの抑圧された人々は自分自身の中にいるとロルカは述べた。グラナダはスペイン最後のイスラム王朝ナスル朝の首都であったところで、多様な宗教的、人種的背景をもった人々が暮らしていた。

ロルカの詩に導かれ、常盤貴子がスペインへ! https://thetv.jp/news/detail/37601/189624/

 ロルカがフラメンコを愛好したのは、フラメンコが、スペインの「抑圧された人々」の文化や歴史の融合の上に成立したという背景があるに違いない。スペインでは1930年代にアンダルス(イスラム・スペイン)時代の文化を見直そうという復興運動が起こったが、スペイン・ナショナリズムに強烈に訴えるフランコ独裁体制(1936~75年)の下ではそうした動きは絶えることになった。


 フラメンコの楽曲「ソロンゴ」は、ロルカが収集して編纂したものだが、ロルカ自身も新たに詩を創作して加えている。

わたしの瞳は蒼い色
わたしの瞳は蒼い色
そしてこの心は
小さな蒼い炎と同じ色
夜、わたしは野へと出て
涙が枯れるまで泣くの
こんなにあなたが好きなのに
あなたはまるで好いてはくれない

 フラメンコ音楽のルーツには様々な説があるが、時代的にはスペインが「アル・アンダルス」と呼ばれた中世時代に生まれ、ムスリム、クリスチャン、ユダヤ人、ジプシーが文化的にも相互に影響し合った時期だった。カナダのイスラム学者トーマス・アーヴィング(1914~2002年)は、その著書『イスラム世界(The World of Islam)』の中でジプシーの音楽とカンテ・ホンド(「深い歌」の意味。奥深く神秘的な情緒や感動を伝える歌)は、アラブの抒情詩にルーツがあると書いている。また、ニューヨーク・ハンター・カレッジの人類学教授ジョナサン・シャノンは、フラメンコは東洋と西洋文化の重要な仲介的役割を果たし、スペインの音楽的ルーツの多くがイラク・バグダードからコルドバにやって来たジルヤーブ(789~857年)にあるならば、フラメンコもまたジルヤーブがイベリア半島にもたらしたレヴァント(東地中海世界)の音楽にその起源があるだろうと語り、フラメンコのことを「ジルヤーブの子供」と形容している。(Jonathan Holt Shannon, Reforming Al-Andalus)

ロルカ、ジルヤーブにも触れている

 ジルヤーブはイラク・バグダードで生まれ、822年にコルドバに移住し、後ウマイヤ朝の宮廷音楽家になったリュートの演奏家で、コルドバに世界で最初の音楽院を創設した。イベリア半島北部の音楽はローマ時代以前のケルト音楽に影響を受けたが、南部はジルヤーブの活動に見られるように、東方オリエント世界の文化的影響が強く、またユダヤ人も彼らに寛容なイスラム支配の下で、スペインの音楽形成に重要な役割を果たした。



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