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星をみるって楽しいの?野尻抱影の星覗きのススメ

あまり星をみる習慣はないけれど、小学校のときは天体観測のイベントに参加したり、ハレー彗星の本を読んだりした気がします。ドラえもんの天体の本なんかも記憶にうっすら残っています。

思い出のなかでもっとも美しかった夜空は、ボリビアを旅行中に見たものだったと思います。夜行バスの故障で、何もない平野で立ち往生、日本からきたぼくらの他に、フランス人、ドイツ人、スペイン人、ペルー人、ボリビア人など、多国籍な乗客のバスだった記憶があります。それはウユニ塩湖に行く途中でした。

バスの修理を待つ間、車中で寝る人、しゃべる人がいるなか、外から「星が綺麗だぞ」と誰かが言いました。英語だったのか、よく覚えていませんが、ぞろぞろと外に出てみると、そこには驚くほどの夜空が広がっていました。満天という言葉では言い表せないほどのもので、周囲に明かりのない場所だったからこそ、味わえたものでした。これほど美しければ、そこに物語でも描きたくなるだろうな、と古代の人びとへと憧憬にかられたものです。

1.星を覗く野尻抱影

ぼくはそのボリビアの夜空をただ「美しい」としか思えなかったのですが、100年ほど前の日本には星読みの名手がいました。名を野尻抱影(のじりほうえい)と言います。天文学が専門ではないにもかかわらず、「星の文人」とも呼ばれ、夜空を眺め、言葉にし続けてきた人です。「Pluto」という星を「冥王星」と名付けたのは彼でした。

英語の先生などを務めた野尻はたくさんの随筆を残しています。「星を覗くもの」というタイトルのものには、野尻が「星覗きの話を書いてほしい」と言われたときのことが書かれています。

「のんびりとした生活の一例として、星覗きの話を書けという註文がある。自分は、案外のんびりしていないはずなのだが、友だちまで寄ってたかって、そう定(き)めている」

という一文から始まります。平凡社のSTANDARD BOOKSシリーズ『野尻抱影 星は周る』に収録されています。

めんどくさそうに、「まあいい」と言いながら星を見る面白さについて書き始める野尻。気だるそうな文体でありながらも、そこには星に魅了された少年のような想いが端々にこぼれています。

星覗きの基本は「季節の移り変わりを楽しむ」ことだそう。毎年同じ星座に出会うことについてこう書いています。

「少年の時分から毎年見慣れている星座の姿が、それこそ一糸も乱れぬシステムを保って、幾月ぶり、あるいは一年ぶりで、ある晩こっそりと空の一方に現れて来るのを見ると、まったく久しぶりの友だちに逢ったと同じ気持で、つくづくと眺めるのである」

そして、オリオン座とのめぐり逢いをこう語ります。

「例のオリオン座などとなると、二十年、三十年、冬のたんびに見ているのだが、あのみつ星が東の地平にまっすぐ立って出て来るのを見ると、正直、胸がどきつくのである」
「空を見上げながら歩いていれば、どんな晩でも淋しくはない。大勢の友だちのウインクに逢っているのと同じだからである」

めんどくさそうに書き始めたとは思えないほど、なかなかのロマンチストっぷり。星を友のように語る眼差しに、こちらがどきつきます。

2.ホメーロスとミイラの悠久感

次に星覗きの面白さは「星の悠久感」だと言います。

「今どき、永遠だの、悠久だのぐらい、およそ世間離れのした名辞はなさそうである。(中略)だが、星の場合は、自然にそいつを感じてしまうのだから仕方がない。また、これに幸福を見出したい人たちは星を覗くに限る」

なんだか世の中にはツンツンしつつも、星にはデレデレ。野尻のツンデレ感がちょっとずつ感じられます。

「星座のいろいろの形と、ことごとくの星の位置は、少年から今に至る間は愚か、百年、千年、よしんば、万年前に生まれようが、後まで生き残ろうが、ほとんど目立った変化がないはずである。また一星をも加えず、一星をも減じないはずである」

ここから、野尻の文体が冴え渡ります。この悠久感を表現するために、ホメーロスとミイラが登場してくるからです。

「たとえば、今夜ギリシャの詩人ホメーロスを蘇らせてみる。あの人は盲目だったから、星を見せるわけにも行くまいが、夕映のさめた後の空に、彼が三千年も前に歌ったポオーテス(牛飼座)の大星が、爛々と金光を放っていると言ったら、見えない眼を見はるだろうと思う」

悠久感を伝えるために盲目のホメーロスを引っ張ってくるセンスに惚れ惚れします。

「上野の博物館の、大地震でもぴくともしなかったはずの、プシャレプタ君―ミイラの名である―に、ある晩目玉を入れて、抱き起こしてやったら、四千年前、エジプトの空に見た、太股(ふともも)の星、怪物ティフォンの星、ジャッカルの星なぞが、相変わらず北の天頂をどうどう回(めぐ)りをやっているのを発見して、奇声をあげるに違いないと僕は断言する」

四千年前のミイラもビックリ、というのをこんなに美しく書けるのは嫉妬さえ覚えます。

3.三百年前の彼の瞬き

さらに星覗きのコツについて、「星の遠さ」にも言及します。ちょっと長いですが引用します。

「今夜見る北極星の光が、日露戦争の頃の今夜出発した光の達(とど)いたものであったり、天頂の織女の光が磐梯山が爆裂した年あたりに瞬いたものであったり、遠いところでも、蠍座のアンタレースが三百光年以上で、権現様御入府前後の光が、やっと到着したものであったり、そして、仮に彼が今から二百年前に消えてしまっても、まだこれから百年は彼等の目に見えているのだと聞いたり、また彼は、秒速三キロで動いているので、いつも見ている星は、いわば幻影であるに過ぎないと言われたりすると、烟(けむ)にまかれながらも、「遠いものだなあ」と、まずのんびりしていると言われても仕方のない二分三分を、自分に発見するのである。

とても長い一文ですが、それによってさらに星の遠さを感じさせます。星のことを「彼」と呼んでいるところにも野尻の星を人と同等かそれ以上と見ている姿勢も感じられます。

4.星覗きの人びとへ

最後に野尻は望遠鏡を覗く人びとについて、こんな風に描いています。

「僕は時に、地球の表面から空へ向けて凸出(とっしゅつ)している世界ところどころの望遠鏡と、その背後でどれも片目をつぶっている、老若いくつかの顔を空想して笑いたくなることがある。
 けれど、あんまり毎晩夜露に濡れてひどいリューマチスになった友人があったり、天文台は案外短命の少なくないことを言い添えたら、星覗きもやはりのんびりとばかり終始出来ないことを合点して下さるだろうと思う」

野尻の文章はマクロとミクロを行き来します。地球の表面に望遠鏡が立っている宇宙からの視点、さらにそこに片目をつぶった人が立っている近い視点、その両方を一瞬で超える、その想像力こそが野尻の文章を豊かにします。

そして、最後はしっかり「のんびり」のために書いてくれと言われた依頼にチクリと釘を刺して終わります。ここでもツンデレが垣間見えます。

ボリビアに行く前に野尻抱影の文章に出会っていたら、もっと星を楽しめてたかもしれません。でも、野尻の言うように星は千年経ってもそこにいてくれます。ミイラになる前に、こんな野尻抱影の星覗きのアドバイスを参考に、ちょっと夜空を眺めてみるのもいいかもしれません。


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