見出し画像

人間の本性とは何か?―マット・リドレー【百人百問#004】

人間の本性や本質を理解することは難しい。
他の動物と何が違うのか、人間だけの特性は何なのか。

その難問に挑むのがイギリスの科学ジャーナリストであるマット・リドレーだ。子爵の称号も持ち、2013年には貴族院の議員にもなっている。著作に『赤の女王:性とヒトの進化』『やわらかな遺伝子』『繁栄』『人類とイノベーション』などがある。オックスフォードで動物学を専攻したこともあり、生物学の観点からの著作も多い。

『赤の女王』という著作では、「赤の女王仮説」と呼ばれる生物学の仮説をもとに、生物の進化についての広大なストーリーを紡いでいる。「赤の女王」は『不思議のアリス』の赤の女王のセリフである「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」に由来している。すなわち、生き残るためには進化し続けなければならないということだ。

その進化の秘密はダーウィンによって明らかにされた。それは「自然淘汰」と「性淘汰」である。自然淘汰は適者生存の論理で、環境に適したものが生存するという有名な説だ。一方、「性淘汰」はオスとメスが生き残るために特有の形質を発達させる淘汰のことである。この「性淘汰」に注目したのが本書である。

リドレーが人間の本性を探究する中で行き当たったのが、この「性」の問題だった。性淘汰とは、生物が同じ種に属していても、オスとメスではずいぶん違うところがあるというものだ。からだの大きさや飾り羽の有無、色や角や牙など目に見える形の上でも大きく異なる。

この性淘汰には様々な理論モデルがある。たとえば、「ランナウェイ説」は、メスがオスのある形質を好むようになれば、その形質が受け継がれていくというものだ。さらに、その形質が非適応的な形質であっても発達する。環境に適応することが重要な生物にとっても、オスはメスに好まれるためには、変な特徴さえも発達させるのだ。オスは悲しき存在である。

また、「ハンディキャップ説」では、より個体にとって不利なことを示すことで、強さを示すというものだ。たとえば、フラミンゴの体色を鮮やかにするカロチノイドは体に害があるものの、あえて多く摂取することで、健康で強靭な体であることを示す。

ガゼルの「ストッティング」という行動もユニークだ。捕食者であるライオンやチータの前で高く飛び上がり、他の仲間より自分が健康で調子が良い個体であるということを示すのだ。だんだか「東リベ」の下っ端ヤンキーのような、なんとも切ない特性である。

オスとメスの特性でいうと、たとえば、繁殖競争はメス同士よりもオス同士の方が激しいことやメスの選り好みがオスの形質を変えるというものがある。動物というものは、オスはメスに翻弄される生き物らしい。

このように、性差があることで、生物は特性を発達させてきた。悲しくもオス/メスの呪縛からはなかなか逃れられないのだ。そもそも、精子は小さく大量なものから生存する戦略で、卵子は大きく少数なものから生存する戦略であることに起因するという。

オスは大量に頒布することで勝ち残ることが重要であり、メスは相手を慎重に選択し、少数を大事に育てることを重視する。ここからオス/メスの特性が生まれている。というか、そもそも、精子のような戦略を持つものを「オス」、卵子のような戦略を持つものを「メス」と定義するらしい。

このように生物の本性は性差に大きく依存する。たとえば、リドレーは人間について、こう綴る。

オスが求愛の主導権を握り、メスは一般に生まれた社会を去る類人猿である。オスは捕食者で、メスは食物となる植物を探す類人猿である。オスはパートナーと子どもに食物を提供し、保護し、そばにとどまる。オスは総じて順位制をなし、メスは総じて平等主義である。

『赤の女王』マッド・リドレー、p544

オスとメスの違いを通して、人間の本性のようなものを見ようとする。しかしながら、ここで抱くのは、本当だろうか?という疑念である。男脳/女脳というものは殆どないという説もある中で、オスとメスをこんなに単純化してもいいのだろうか。

リドレーは最後にこう綴る。「本書に記した考えの半分は、おそらく誤りだろう」と。上記のような性差の話を安易に人間に転用することへの警鐘も同時に鳴らす。安易に性差を強調すると、性差別につながってしまうからだ。それほど人間は文化や社会に依存しているのだ。

リドレーは『やわらかな遺伝子』でゲノムをめぐる人間の本性を探り、『繁栄』で10万年の歴史を通して人類史最大の謎である「文明を駆動するものは何か?」を追い求めた。

『繁栄』の中でリドレーは、自らの問いについてこう書いている。

私は過去二十年間に、人間とほかの動物の類似性について四冊の本を書いた。だが、本書では人間とほかの動物の違いに取り組む。人間が自らの生き方をこれほど激しく変え続けられる原因はどこにあるのだろう?

マット・リドレー『繁栄』

その人間だけの違いについて、リドレーは「アイデアのつがい」と表現する。生物たちが遺伝子上で自己複製し、突然変異し、競争し、淘汰し、蓄積し始めたのと同じように、人間は文化自体が自己淘汰と蓄積をしていった。こんな生物は他にいない。

人類は歴史のある地点で、アイデアが出会い”つがい”始めたこと、生殖を始めたことに人間だけの本性があるというのだ。他者同士のアイデアが融合し、新しいものを生み出す。生物学的進化に対して文化的進化を起こしてきた。紙と印刷機が、インターネットと携帯電話が、石炭とタービンが、銅と錫が、出会ったことは人々はイノベーションを起こし、文化も経済も進化してきた。文化的進化における「交換」というものが、生物学的進化における「生殖」に相当するのだとリドレーは語る。

このアイデアをコアに、近著『人類とイノベーション』では「アイデアのつがい」をさらに具体化し、アイデアを組み合わせることでイノベーションを起こしてきた歴史を追いかけている。

「人間の本性とは何か?」を追い続けるリドレーは『赤の女王』の終盤でこう綴る。

我々は決してみずからを理解できない巡り合わせなのではないだろうか、
と私はときどき思う。
(中略)
我々がゴールに到達することは決してないのだろう。
そして、そのほうがおそらくよいのだ。
それでも「なぜか?」を絶えず問い続けているかぎり、
我々には崇高な目標があるのである。

『赤の女王』マッド・リドレー、p545

生物のことを知ったからと言って人間の本性が明らかになるわけではないが、人間の動物的な部分は明らかになる。そして、文化に潜む人間の本性を探ることで、新たな人間らしさが垣間見える。リドレーの飽くなき「人間の本性」の探究は続く。


この記事が参加している募集

読書感想文

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?