不条理とどう向き合うのか?―安部公房【百人百問#016】
高校時代は田舎の進学校の寮に監禁されていた。
大げさな表現ではあるが、寮生活が耐えられず脱走する者もいたし、学校を辞める者もいた。そこは、ケータイもテレビもマンガも恋愛も禁止されていた山奥の寮だった。
だからこそ、やることが無くなったぼくは読書に没入し、野矢茂樹(#010)をきっかけに「考える」ようになったというのは以前のnoteに書いた。そして、その過酷な寮生活で最もハマった作家が安部公房だった。
当時気になっていた文学少女Rさんに勧められたのがきっかけだった。たしか教科書に『赤い繭』が載っており、その話をRさんとしたときに『壁』を貸してくれることになったと記憶している。
まだ読書初心者のぼくにとって、安部公房は刺激的だった。こんな作品を飄々と読んでいるRさんがとても大人に見えた。ここで、安部公房に惹かれたのか、Rさんの気を引きたかったのかは定かではないが、とにかく『壁』との出会いは、青春の甘酸っぱさと寮生活の過酷さの入り混じったものだった。
『壁』の冒頭、主人公は突然、名前を失う。
朝、目を覚ますと何か違和感を感じつつ、空腹のせいかもと思いながら、食堂に向かうところから物語は始まる。いつもより多く、スープ二杯とパン一斤半を食べ、空腹を満たす。
しかし、彼の胸はますます「からっぽ」になっていく。満腹なのに、からっぽであることを訝しがりながら、ツケの帳面に名前を書こうとする。しかし、ペンを握ったまま、どうしても名前を思い出せなかったのだ。
名刺入れを探したり、身分証を漁ったり、父からの手紙を探したり、上着の縫取を見たりしたけれど、名前の部分だけ消えていた。じれったくなり、カウンターの少女に名前を聞いてみるものの、思い出してくれない。
そこからこの名無しの主人公「ぼく」の物語が始まる。「名前」は警察にも届け出ができず、自分で探すしか無く、彼は出勤してみることにする。ようやく会社の受付で自分の名札を見ることができた。そこには「S・カルマ氏」と書かれていた。しかし、何の記憶も思い起こされないし、懐かしさも感じない。
安心感も感動も覚えないまま、自席に向かう。そこで驚いたことに、すでに「ぼく」が座っていたのだ。しかもその姿を正面から見てみると、その「ぼく」は、「ぼくの名刺」の姿をしていた。
主人公はたしかに、そこに「名刺」が立っていることを確認した。「名刺」が話し出す。
「ぼく」は言うべき言葉が見つからないまま、つかみかかろうとしたが、「名刺」は思ったより手強く、するりとドアの隙間を抜け、物置に逃げ隠れてしまう。
「ぼく」はわけがわからなくなり、会社をあとにする。胸はずっと「からっぽ」で、叩いてみると、とても空虚な音がする。病院に言ってみても、「名前」を聞かれてしまう。名無しは社会で生きづらい。
病院の待合室でも不思議なことが起こる。
「スペインの絵入雑誌」があり、ダリの絵とともに「砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景」が載っていた。それに魅せられた「ぼく」はいつのまにか、その風景の中に立っている。我に返ると、雑誌からその風景が消えていた。自分の胸の空洞がその風景を吸い取ってしまったのだ。
なんのことかわからない話だが、これが安部公房の世界だ。
動物園では危うくラクダを吸い取りそうになるし、哲学者や数学者に奇妙な裁判にかけられたりもする。夜な夜な上着やズボンや靴や眼鏡やネクタイが革命会議を開いたり、恋人のY子がマネキン人形になったりもする。
映写機によって「世界の果」という映画が上映されるシーンでは、「ぼく」はスクリーンに吸い込まれ、「ぼく」の部屋が映し出される。そこから「ぼく」は「彼」という三人称に変わり、スクリーンという壁の中の人になってしまう。
こうやってぼくらは安部公房の世界に酔っていく。
「名前」を失った人間は、犯罪者になり、狂人認定され、人ではなくなっていく。結局社会は「名前」が無いと何もできないことを思い知らされる。
そして、最終的に「彼」は「胸の中の曠野で成長している壁」によって、急速に人間の姿を失い、全身が「一枚の壁そのもの」に変形していく。
壁に囲まれた部屋から始まったこの物語は、名刺というペラペラの壁の登場をきっかけに、自身のアイデンティティを失い、スクリーンという壁に吸い込まれ、自分自身が壁になっていく。
この作品はいったい何を表現しているのだろうか。マンガ家のヤマザキマリは『壁』に対してこう語る。
ヤマザキマリは、『壁』に実存を見出す。自身が極貧の画家見習い時代を過ごしていたことと、安部公房が戦後の日本で歩んだ貧しい生活を重ねていく。壁で囲まれた独房は決してネガティブなものではなく、永続する安心を提供してくれる。一方で壁のない世界は自由である一方で安心とは程遠く、いつ身の危険に襲われるかはわからない。
この「充足した独房」と「欠乏した自由」を対比しながら、ヤマザキマリは安部公房の『壁』を読み解いていく。
高校生だったぼくは、寮という壁に囲まれ閉鎖された空間の中で安心を感じたくはなかったのだと思う。それよりも、「欠乏した自由」に向かう「ぼく」に惹かれたのだと今だから思える。
ヤマザキマリはすでに「壁の外」であるイタリアで画家を目指したいたときに安部公房の作品に出会う。それはすでに「欠乏した自由」を得た後だったからこそ、「充足した独房」の良さにも気づけたのだろう。
しかしながら、独房のような寮生活の真っ只中だったぼくにとって、「自由」のほうがあまりに魅力で、たとえ名前を失ったとしても世界を旅した「ぼく」が魅力的に感じたのかもしれない。だからこそ、この『壁』に絶望こそせず、希望を持ったような気がしている。
この物語は不条理文学とも言われるため悲劇なように思える。しかしながら、ぼくにはとても喜劇に思えた。結局社会は安全な「壁」で囲まれながら「名刺」という安心によって保全されている。これは滑稽でもある。名刺の安心感もありながら、そこには芝居じみた虚構性も同居する。
社会の縁(よすが)である「名前」を失った瞬間、とても不安定な存在になる。しかしながら、「彼」は部屋を飛び出て、旅をする。「世界の果」をも巡りながら、社会の不条理に出会っていく。その旅路が寮に監禁されていたぼくにとってはとても魅力に満ちていたのだ。
安全な壁に囲まれた場所にいるくらいなら、壁の無い不条理な世界を巡ってるほうが、面白そうだと感じたのだと思う。それゆえに、石川淳が書いた『壁』の序文がずっと脳裏に焼き付いている。
この文章を読み返すたびに、壁を破るのではなく、そこにチョークで絵をかきたいと思う。壁の不条理を嘆くのではなく、閉鎖された世界に安住するのでもなく、壁に世界を描くという自由を常に持っていたいと思う。
不条理とどう向き合うのか?
それは「壁」に絵を描くことであり、欠乏した自由と向き合うということだった。それは一見悲劇なように見えて、喜劇の主人公にもなれることを教えてくれる。Rさんから借りた『壁』は、今でも心に残り続ける。
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