社会に出るという事

さて、私は何の変哲もないありきたりな会話の中に不思議なことと出会うことがしばしばある。
 最近あった出来事でいえば、文章を書いている最中にクラスの男の子が寄ってきて「パソコンを使えるっていいよね。社会に出た時に役に立つから。」こう言ったのだ。
確かにパソコンは、一般的な職種において必要不可欠な技術だと思う。プレゼンテーションを作成するのにもパソコンを使うし、私のように趣味で文章を書く時にも必要だ。
 なぜ彼はパソコンが使えることを“社会に出た時に役立つ”と分類してしまったのだろうか。もちろん彼が深い意味を持ってこの言葉を発していないことはサルでもわかる。しかし、彼らは知らないのだ。どんなものでも創造することが出来るパソコンの素晴らしさを。プレゼンを活用すればデザインや話す力が身につく。文章を書けばこうして人に自分の思いを伝えることが出来る。プログラミングを勉強すれば自分の思い向くままに好きなもの創ることが出来る。
彼らにとってパソコンというのは創る物ではなく“社会に出た時に役立つなにか“という分類の物なのだ。
子供たちは、よく”社会”という言葉にさらされる。私たち高校生は特にだ。「そんなことでは、社会に出た時に通用しないぞ」、「社会は君が思っているように甘くない」など日々お経のように聞かされる。まだ17にもいっていない子供たちが社会など知るはずもなく漠然とした“社会“に対する恐怖しか知らないのだ。「あれをしておけば、とりあえず社会に出ても安心だ」と実際に社会を見てきたわけでもないのに、教師がお経のように唱える社会像を盲目的に信じることで、勉強というツールにしがみつくしかなくなってしまう。
 これは本当にもったいない。“社会“という言葉に惑わされ本質的な価値に気づかずにいる。今回のパソコンがわかりやすい一例だろう。


 教師たちは、“社会“という言葉で惑わすのではなく物事の本質的な価値を子供たちに教えてあげてほしい。私もまた、勉強の価値について見落としているかもしれない。今一度、物事とは何なのかよく考えなおす必要があるかもしれない。

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