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『哀れなるものたち』

楽しみにしていた、『哀れなるものたち』を劇場で観てきた。

公式にあるアウトラインはこちら

天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。 天才監督ヨルゴス・ランティモス&エマ・ストーンほか、超豪華キャストが未体験の驚きで世界を満たす最新作。

https://www.searchlightpictures.jp/movies/poorthings

原題は『Poor Things』でモノ・コトを感じるのに、邦題はヒトを感じる。最終的に何が(誰が)哀れなの?で感想が分かれる作品だけど、タイトルから惑わせにかかっている気がする。

華やかで、グロテスクで、寓話的な世界観にどっぷりハマれるか否かで評価が分断しそうな本作だけど、私は圧倒的に前者。まだ始まってまもない2024年だけど、今の所のNo.1ムービー。劇場でかかってる間にもう1回行きたい。

話したらきっときりがないので、特に私の心を掴んだポイント3つにフォーカスを当てて忘備録として残したい。

圧倒的なビジュアル表現

まずこれ、第一にこれ、そして何よりもこれ。
公式で特別映像としてビハインドが作成されていることからもお察し。

映画のセットも圧巻だけど、最初私の心を掴んだのはベラの衣装。
嘘みたいなパフスリーブは当時(一応19世紀のお話ってことになっている)の女性の衣装からきてるみたいだけど、本来の意味の曲線的で女性らしさを強調すること以上に胎児の脳を移植して生まれ変わった彼女の幼児性を表しているようにも見える。

本当にどの衣装も素敵なんだけど、特に私が好きなのは、リスボンの時のショートパンツの衣装。

公式サイトより

19世紀にショートパンツで出歩けるはずなくない?良識的な社会は許容してくれないぜ。ベラの冒険が一体どうゆうことなのかを端的に示してくれている衣装だと思う。

誰かのものから脱却して自分のために生き直すというストーリー

公式の説明にもあるとおり、本作はベラの冒険ストーリーであると同時に、男性の所有からの脱却ストーリーであると言えよう。

そもそもストーリーは暴力的な夫からの脱却から始まる。(ただその手段は自殺だったけれど)

次にベラが脱却を図るのは創造者であるゴッドである。異常なまでにベラを過保護に育て上げる姿は、ベラの部屋からも垣間見ることができる。

全体をキルトに包まれたベラの部屋は、壁にぶつかって怪我をすることなんて絶対にない。安全で、守られていて、それで世界の全てが完結する。しかしその小さいお城で満足しないのがベラである。

ベラと一緒に自由を楽しむと思われたダンカンからも結局脱却することになる。最初は社会の常識に囚われていないところに魅力を感じた彼も彼女の魅力に当てられて結局は彼女をコントロールしようとする。女に勉強なんて必要ない、それよりも部屋でsexを楽しもうと海に本を投げ捨てるシーンが特に印象的だった。

そして、冒険の最後の場所となるパリ。ここでベラはセックスワーカーとしての価値観からの脱却を図ろうとしたのではないだろうか。客を自分たちで選べるようにしてはどうか?という提案にしろ、それ以前から描かれているタブーをタブーぜんとしないで性に対してあくまで自主的な姿は今なお続く女性は純潔であれという社会の抑制を軽々と跳ねのけていて、見ていて清々しい。(不思議だけど、劇中はめちゃくちゃsexシーンがあるけど、エロさよりもthat's so funnyって感じだった)

哀れなものすぎる音楽

そして最後にあげたいのが音楽である。Sigur Rós味を感じて映画が終わって調べたけど、Sigur Rósではなく、Jerskin Fendrixなる人が作ったものらしい。

さて、Jerskin Fendrixである。彼の経歴調べたけど、ケンブリッジ卒で過去に1つアルバムを作っているくらいしかわからなかった。あとこれ

格闘ゲームの『鉄拳』とおにぎりを愛し、怪談をテーマにした曲を作った男。

https://www.ele-king.net/review/album/010622/

正直本人についてはよくわからない。ただ言えるのは音楽がマジで作品にぴったり。
あとで知ったのだが、撮影中もこの音楽を流して撮影していたそうだ。

幾つものファクターがレイヤーのように重なった結果としてこの独特な世界観が作られていることは間違いなく、そして見た目ってわかりやすいから私も一番先にあげたけれど、意外と音楽の功績も大きい映画なのかもしれない。

結局何が哀れなのか

さて本作を語るにあたり、一番大事なクエスチョンであるように思える問いである。そしてそれは解釈がさまざまになるであろうことを先に述べた上で私がどう思うかについて言及して結びとしたい。

人造人間として生き直すベラか?ベラに振り回される男たちか?最後はキメラと化す元夫か?はたまた社会の弱者として描かれるアレクサンドリアの貧困者やパリのセックスワーカーたちか?

私はある意味において全てではないか?と思う。特定の人物ではなく特定の状態にあることが哀れであると感じたのだ。ベラはゴッドの家に閉じ込められているとき、頻繁に『哀れなベラ』と言っていた。それは自分のことというよりは自分の意思のままに冒険に出られない状況をさしていたのではないだろうか。

自分の意思やwantを社会や他者に邪魔されている状況にあるにあるものを哀れとした時、ベラも哀れだったし、男たちも当然哀れだし(そもそも他人はコントロールできないものなのだ)、アレクサンドリアの人もパリの人も哀れであった。

逆にいうと哀れじゃない人なんていないかもしれない。しかしその哀れさはあくまで客観的な烙印にすぎない。

最後のシーンベラは自身を『哀れなベラ』と思っていただろうか。お酒を手に自分の進みたい道を進もうとしている彼女のように、私も自分の心の向くままに生きていたいし、世界を楽しむ覚悟を持ちたいと強く思った。(たまに哀れな瞬間が今後もたくさん訪れるとしても!)

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