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【連載企画】峰々に魅せられて

1934(昭和9)年、日本で初めて国立公園に指定されて3月に70周年を迎える霧島屋久国立公園をさまざまな角度から紹介する。

このコンテンツは連載企画として宮崎日日新聞社・きりしま版に2004年1月6日~2月1日まで掲載されました。登場される方の団体・職業・年齢等は掲載当時のものです。ご了承ください。


国立公園指定70周年

霧島 神秘のたたずまい

 霧島は、いつの時代も人々の心をとりこにしてきた。高千穂町とともに天孫降臨てんそんこうりん神話とゆかりが深く、古くは修験者しゅげんんじゃが集まって己を磨き、現代は登山・観光客の姿が絶えない。それは、神々しい山の姿と四季折々の美しい景観の産物でもある。霧島の中でも隠れた名所といわれる「大幡山おおはたやま」と「炭化木」を、自然公園財団えびの支部の前支部長、黒木親敏くろき・ちかとしさん(68)の案内で巡った。

霧島について語る自然公園財団えびの支部前支部長の
黒木親敏さん

 【黒木親敏さんのプロフィル】高原町出身。1953(昭和28)年、営林署入り。88年から02年まで自然公園財団えびの支部長を務める。趣味の俳句は2000年度に宮日文芸賞で俳壇賞を受賞。写真集「霧島の四季」も出版した。小林市真方。

霧島屋久国立公園

 霧島屋久国立公園が誕生したのは1934(昭和9)年3月。当時は霧島国立公園として、瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園(現在は雲仙天草国立公園)とともに初の指定を受けた。64年に錦江湾、屋久島地域が追加され、現在の名称となった。

 面積は約5万4、800㌶。うち霧島地域は宮崎、鹿児島両県にまたがる火山群が中核。数十万年前から噴火活動を繰り返して現在の形が出来上がったとされ、最高峰の韓国岳(標高1、700㍍)をはじめ20を超す火山が連なっている。火口湖が多いのも特徴で六観音御池ろっかんのんみいけ大浪池おおなみのいけ御池みいけなど十カ所を数える。

 多種多様な植物が自生することでも知られ、山頂付近のミヤマキリシマから下ってミズナラやブナなどの落葉広葉樹、モミやツガなどの常緑針葉樹がほぼ垂直に分布する。観光地えびの高原には、国の天然記念物ノカイドウもある。

ノカイドウ

 屋久島は縄文杉をはじめとする巨木群が有名で、93年12月には世界遺産に登録。桜島は今も爆発を続け、火山灰を降らせている。
 国立公園は現在、同公園を含めて全国に28カ所ある。

炭化木

■山々の“怒り”物語る/一面まるで「黒樹の森」
 火砕流堆積たいせき物の地層が水流によって浸食されたがけから炭化した木が露出している。一本、二本、五本、六本…いや、もっとある。生きていた当時の名残をとどめるものもあれば、断片になって転がっているものもある。まるで黒樹の森だ。

沢筋に露出した炭化木は霧島がすさまじいエネルギーを
火砕流として放出した時代の証言者

 高千穂河原から通称・鹿の原と呼ばれるミズナラ、タンナサワフタギ、ミヤマキリシマなどの樹木帯を抜ける。高原町皇子原へ向かうルートの途中から新燃岳方向へ30分ほど入り込む。

 ルート沿いに出現する沢筋に下りると、崩壊した斜面から露出している炭化木が視界に飛び込んでくる。初めて目にする不思議な光景だ。

 コケやシダ類に表面を覆われたものもあるが、こすってみると黒い。黒樹の森は霧島の山々が怒りをあらわにしたときの莫大ばくだいなエネルギーの証言者でもある。

 鹿児島大理学部地球環境科学科の井村隆介助教授によると、炭化した樹木は1716~17年の新燃岳噴火による火砕流にのみ込まれたモミやツガなど。一瞬にして高熱の火砕流に覆われ、炭焼き窯内部と同じような条件になり大型の樹木が炭化した状態で姿をとどめた。

 炭化木の埋まる火砕流堆積物の厚さは2~5㍍で、新燃岳の全周に広がっている。

 噴火史をひもとくと霧島の火山は鹿児島県側には温泉などの恩恵を、本県側には災害をもたらしてきたことが分かる。平和な森は新燃岳から流れ出した火砕流によって焦熱地獄と化し、江戸期の人たちを恐怖のどん底に突き落としたはずだ。

 一片の雲もない初冬の一日。にぎり飯をほおばる。風がはるか頭上を舞っているが、谷の中はうららかな春のようだ。

 炭化木の露出したがけから徒歩で十分ほど。引き返すルートをわずかに外れた広い川床のような場所の一角から無数の水滴がしたたり落ちている。かつては数㌔離れた営林署造林小屋の水源になっていた。土管とちぎれたパイプが人の痕跡をとどめる。わき水は厳冬期には凍結して、つららとなる。

 水滴を口に受け、まろやかな味を堪能する。遠くでシカの鳴き声が聞こえた。危険を知らせるための合図だという。今は静かな大地で何を警戒しているのだろう。人の五感には何も感じない。

 厳しい冬へと向かう季節。鳴き声の主の姿を捜しながら高千穂河原への道を急いだ。

奥霧島ルート

「大パノラマ」が圧倒/大幡池にわき出る息吹
 前日までの雨が上がって、抜けるような青空が広がる。これなら霧島を存分に堪能できそうだ。目的地は大幡山おおはたやま(標高1、352・5㍍)。一帯は、韓国岳と高千穂河原を結ぶ人気登山ルート「縦走じゅうそう」から外れ、登山客は少ない。同行してもらった黒木親敏さんが“奥霧島”と呼ぶ場所だ。

 生駒高原裏の林道を車で上がり、山の北側から登り始めた。最初は急な上り坂だったものの、その後は比較的平たんな道が続いた。ただ、紅葉が終わっていたのは残念だ。

 ほどなく、霧島有数のブナ林に入った。約1㌔の間、登山道の両脇は高さ10㍍以上のブナがびっしり。世界遺産に登録されている白神山地(青森、秋田県境)のブナの原生林とは比べようもないが、黒木さんが「新緑の季節は素晴らしいですよ」と教えてくれた。

大幡山から望む大幡池。気の遠くなるような歳月を
かけて造形された美しい光景だ

 40分ほど歩いただろうか。頭上を覆う木々がなくなり、突然、視界が開けた。目の前に見慣れぬ山が二つあった。黒木さんに「韓国からくに岳とこしき岳です」と聞いて驚いた。この場所は二つの山を挟んで、えびの高原と反対側にあるのだ。慣れ親しんだ山なのに、東側から見るのは初めてだ。

 頂上に近づくにつれてミヤマキリシマの群落が姿を見せ始めた。えびの高原では、ひざの高さしかないのに、ここでは2㍍近い物もある。堅い枝が行く手を阻むように生い茂っている。

 ようやく登頂。一時間半ほど歩いただろうか。そのかいあって、素晴らしい眺望が待っていた。右に高千穂峰、正面に夷守ひなもり岳、左に韓国岳と甑岳。周囲すべてに山がそびえ立つ大パノラマに「奥霧島に来たんだ」と実感した。

 さらに進むと、眼下に大幡池が見えた。ミズナラの白い木々に囲まれ、青い湖面が一層引き立つ。池の写真撮影を兼ねて、昼食を取ることにした。弁当を開く前に黒木さんが手にしたのは琥珀こはく色のウオツカ。「お神酒代わりですよ」と地表に垂らす。山を愛する人ならではの所作だ。

無数の泡の放列が湖底からわき上がっている大幡池。
耳を澄ますと「ポコポコポコポコ」という連続音。火
口湖のささやきのように思えた

 大幡山を下りて、大幡池の湖畔へ。この池は霧島で四番目に大きい火口湖だ。透き通った湖面に目を凝らすと、泡がブクブクとわいている。鼻を近づけると硫黄のにおい。地下で火山活動が続いている証拠だ。取材班の一人が「霧島の息吹」とつぶやいた。

 帰りは大幡池の西から山を下りた。日ごろの運動不足がたたったのか、足と腰、特に荷物を背負ったせいで肩がとても痛い。でも、苦ではない。奥霧島の興奮も心に刻み込めたのだから。


第1部

 霧島屋久国立公園が日本第一号の国立公園に指定(1934年3月)されて、今年で70年目を迎える。この節目の年を機に、霧島の素顔を紹介する。

1.信仰の山

修験者が集う霊場/住民生活に大きく影響
 師走しわすの霧島おろしが容赦なく吹きつける。高原町祓川はらいがわ地区に古くから伝わる祓川神楽はらいがわかぐらが、昨年12月13日夜から14日早朝にかけて、肌を刺すような寒さの中で舞われた。

荒々しい行を見せつけるように舞う祓川神楽。霧島が
霊場として知られていた歴史をほうふつさせる

 400年以上の歴史を持つこの神楽は、噴火を繰り返す霧島の山の神に怒りを鎮めてほしいとの願いが込められている。時には剣を振りかざしながら夜を徹して舞い続ける姿は荒行に耐えているかのよう。「修験しゅげん系の神楽」と呼ばれる由縁だ。

 霧島は今でこそ観光地として有名だが、神楽が象徴するように、古くは修験者が集う霊場として知られ、人々の生活にも影響を与えてきた。

 修験道しゅげんどうは、山岳信仰と密教の呪法じゅほうが合わさった宗教。鹿児島県霧島町にある霧島神宮の千葉晋平・権禰宜ごんねぎによると「霧島には(高千穂町とともに)天孫降臨てんそんこうりん伝説が残ることから、鎌倉時代ごろから修験者が集まり始めた」という。修験者たちは同神社のほかに狭野さの神社(高原町)、霧島岑きりしまみね神社(小林市)などいわゆる霧島六社権現きりしまろくしゃごんげんを拠点に霧島の山々に登り、行を積んだ。

 修験者は、定住した土地で、加持祈かじきとうなどを通じて民衆の生活に浸透し、儀礼や行事、芸能などに影響を与えた。これは霧島地方にも当てはまる。山口保明・県立看護大前教授(民俗学)も「諸県地方の信仰の大本は霧島」と言う。芸能では祓川神楽のような修験系神楽が残り、日照りが続くと地区の代表者が高千穂峰に登って天の逆鉾さかほこを揺らす風習もあったという。

 修験者の姿は、今も高千穂峰や韓国岳で見掛けることがある。修験道の始祖・役行者えんのぎょうじゃが開いたとされる奈良県吉野町の金峯山寺きんぷせんじで修行を積んだ、えびの市原田の神仏根本道場・慈光院じこういんの竹村慈光住職もその一人だ。

 竹村住職に、多くの人々を引き付ける霧島の魅力を尋ねてみた。「霧島は、全国の修験者も一目置くほどの霊場。この山の自然に自分を置くと、大きな心ができるんです」と答えてくれた。修験道のことわりは分からないが、霧島の峰々を目指す人々の心は理解できるような気がした。

2.連なる山々

火山二十数座並ぶ/世界的にも少ない地形
 「霧島山は富士山の対極にある火山」。東京大学の鍵山恒臣かぎやま・つねおみ助教授(火山物理学)は話す。孤高の火山である富士山に対し、霧島は20数座の火山が密集する。鍵山助教授は「ちょっと俗っぽいけれど」と前置きし、「増築に増築を重ねた雑居ビル」に例えた。

20数座の火山が連なってできている霧島山。日本を
代表する火山群といわれる

 “雑居”とはいえ、山々は一定のライン上に位置する。北西の飯盛山から南東に向かって硫黄山、新燃岳、中岳までをつなぐ線。この中の新燃岳から北東に直角に延び、夷守岳までつなぐ線。御鉢と高千穂峰、御池を結ぶ東西の線。地下のマグマが噴き出る裂け目に沿って並んでいる。

 これらの火山が、二万年の間に噴火を繰り返した。何十万年といわれる火山の寿命の中で、この噴火は同時期ととらえられる。規模、噴火史ともに日本を代表する火山群といわれるゆえんだ。

 鍵山助教授は「なぜこんなに多くの火山がボコボコ出てきているのか。それぞれどんなマグマを持っているのか。世界的にも少ない、面白い火山」と目を輝かせる。

 有史以来、常にふもとに住む人々の身近にあり、誇りでもあった霧島。国が全国で国立公園化の調査を始めたのは1921(大正10)年。当初から本県、鹿児島県は指定を目指し、指定第一号を実現した。

 霧島が指定候補地に決定した翌年、1933(昭和8)年三月に発行された国立公園協会機関誌「国立公園」で、富田重治同協会地方幹事は、国立公園にふさわしい理由に「散在する噴火口はそれぞれ形が違い、世界中の名火山のサンプルを集めたよう」「大自然の景観が雄大かつ絶美」「韓国岳を中心とする森林美」「山腹一帯にある温泉」などを挙げ、「世界に誇る霊山で国立公園の資格十二分だが、地元県民の熱望十数年の間、悲観説が伝わっていただけに、決定の喜びが偉大だった」と振り返っている。

 指定を願った理由は「外国人や観光客を誘致して土地の繁栄を望んだだけではない」「神代ながらの雄大な大自然が物質文明の圧迫から免れていたが、近来誇りとしていた原始林にもおのが入り始める不安を生じ、これを除きたい、という一念も」としている。

 候補地決定時の県民の喜びを記すのは「宮崎県の百年」(山川出版社)。「昭和7年10月8日、霧島が国立公園の指定候補地12カ所の一つに決定したことが報ぜられると11月1日、高原村の狭野さの神社で祝賀会が、県知事木下義介も出席し盛大に開催された」とある。

3.屋久島

信仰持つ世界遺産/群抜く縄文杉の存在感
 名こそないが、神木と呼ぶに値する杉を幾多も見ることができる屋久島の森。トロッコ道8・9㌔、原生林2・3㌔を歩くこと5時間。群を抜く存在感の巨木に出会った。

悠久の森の主「縄文杉」。屋久島は世界中から注目を
集めている

 「縄文杉」。高さ25・3㍍、周囲16・4㍍。しっかりと根を張り、天を支えているかのよう。樹齢は2600~7200年の諸説があり、名は木肌模様が縄文式土器の文様に似ていることにも由来するという。

 生まれも育ちも屋久島のネーチャーガイド、岩川俊朗さん(49)=鹿児島県屋久町=の案内で、森に入ったのは昨年12月19日。道すがら冗舌だった岩川さんが“森の主”の前では「初めてこの杉と会ったのは中学生。岩かと思った」と、言葉少なになった。

 本土から約60㌔の屋久島は周囲130㌔。九州最高峰の宮之浦岳をはじめ1800㍍級の山々が連なり、面積の9割が山岳。1000㍍付近まで照葉樹林帯が広がり、段階的に針葉樹林帯と寒帯、亜寒帯に分類される。地理上の区界を越える植生が見られるなどとして、1993年、世界遺産に登録され、世界中から研究者や観光客が訪れるようになった。

 島には島民の苦悩の歴史がある。森は、島民にとって木材需要を背景にした宝の山で、伐採の歴史は、安土桃山時代までさかのぼり、江戸時代には年貢として納められた。屋久杉は、油分が豊富で屋根の平木として重宝され、島の経済を潤してきた。

 昭和40年代、自然保護運動の高まりとともに島は「保護」と「開発」の二つに割れた。議論の末「対立を克服し、島の価値に依存しながら自然との関係、共生の在り方を模索する」(屋久島環境文化村マスタープラン=1993年策定)という考えにまとまった。

 伐採は、山岳信仰を背景に制限されてきた。上屋久町歴史民俗資料館によれば、1600年代に屋久杉活用を提唱した僧侶・泊如竹は必要以上の伐採を防ぐため「おのを立て掛けて一晩待ち、おのが倒れた杉は、神の許しがなかった木。切らぬよう」と諭したという。

 伐採の前線基地として栄え、1970(昭和45)年に閉鎖された小杉谷集落。そこにあった学校歌に自然とのかかわりが集約されている。

ああ南海に 天そそり立つ
屋久の八重嶺の 山ふところに
われら生まれて 故郷を愛す
この山 この谷 この川 この水
豊かにきびしき 故郷を愛す

4.豊かな植物

■弱い種守る“聖域”/泉がはぐくむヒンジモ
 高原町内の豊かな水源に珍しい藻が生息している。西日本では、ここ以外に確認例がないというヒンジモだ。直径1、2㍉の3枚の葉がくっつき「ひん」の字に見えるため、この名が付いた。

貴重なヒンジモの群落を「霧島の豊かな自然の証明」
と話す南谷さん

 水量は豊富で、出水口の一帯は青インクを溶かしたような不思議なあい色。小さなイシガメが泳ぎ回る。ヒンジモは出水口から少し離れた岸辺の至る所で身を寄せ合って生きている。時折、数百あるいは数千という単位で岸から引きはがされ、下流へ流されていく。繁殖量と流出量が釣り合っているため聖域が保たれている。

 宮崎市恒久の野生植物研究家、南谷忠志みなみたに・ただしさん(63)は「このような弱い種が遺存できているのは豊かな自然が残されていることの証明」と語る。霧島が国立公園に指定され、開発が制限されたことがヒンジモの生存を可能にした最大の要因と推測する。

 霧島一帯は野生植物の宝庫である。その数は146科、1350種を超える。初めて訪れた植物研究者は狭い地域に多種多様な植物がひしめく生態系に驚くという。

 理由はショウジョウスゲ、ミヤマキリシマなど荒原に最初に根を下ろす先駆者的植物が硫気ガスの噴出で遷移が抑制され、守られていること。そして、ノカイドウなどにとって好適な湿地のような特殊環境がモデル地域のように残っているためだ。このため、クライマックスの森林に至るまでの各段階が霧島全域に展開している。

 えびの高原の年平均気温は青森市とほぼ同じ。大陸と日本列島が地続きだった氷河期に渡ってきた多くの北方系植物の南限になっている。

 飛来したカモが翼を休める御池から霧島東神社へ至る道の途中にハナガガシ(ブナ科)の純林がある。約1800種を数えるレッドデータブック記載植物のうち高木は屋久島、種子島のヤクタネゴヨウ(マツ科)とハナガガシだけだ。純林を構成する数百本の樹齢はさまざまで、原生林としては世界一の規模を誇る。

 貴重な森だが悩みもある。増えすぎたシカによる食害で若い世代が育っていない。南谷さんは「百年先には全く違う森になっている可能性が強い」と危ぐする。

 森でハナガガシやイチイガシのドングリを拾う老人に出会った。後継者のいない自分の畑に植えるのだという。幹がひび割れ寿命を全うしようとしている老木と後継者なき老人。二つの影が森の中で重なって見えた。

5.温泉郷

登山者を癒やす場/島津義弘の療養記録も
 豊富な霧島の地下水に上昇したマグマの火山ガスが溶けて温泉になる。硫黄山、新燃岳、中岳のマグマだまりは地下十㌔だが、火口直下では2㌔まで上昇している。このため、霧島の山々のすそ野には豊かな温泉がわく。

えびの市昌明寺の吉田温泉は古くから効能を知られた。
戦で深手を負い、傷を癒やした島津義弘が建立した湯権
現社

 都城、えびの、小林市、高原町など霧島周辺市町村の温泉源数は120で、ゆう出量は毎分1万267㍑。温泉宿泊施設の泊まり客は年間12万人に上る。

 えびの市の温泉源数は81を数え、群を抜いて多い。同市昌明寺の吉田温泉の歴史は古く、1566年に伊東氏との戦闘で負傷した島津義弘が療養した記録が残る。2軒ある湯治場のうちの一つ「鹿の湯」の近くに温泉記念碑。さらに、その奥にはクスの巨木に挟まれるように小さなほこらが立っている。義弘が建立した湯権現社である。

 吉田温泉で一軒だけの旅館「伊藤」の三代目主人で京町温泉旅館組合長の仁科哲朗さん(71)によると昭和初期には敷地内に地表から2㍍ほどの高さまで温泉が自噴していたという。温泉に含まれている炭酸に目を付けた事業家がガス事業を起こそうと一帯を整地したこともあった。

 吉田温泉は戦時色がまだ薄かった昭和10年代前半まで宮崎、都城、人吉、大口など3県からの湯治客や馬車で乗り付ける宴会客でにぎわった。旅館「伊藤」の旧施設は太平洋戦争中、負傷した軍人の治療のため陸軍に接収された。抜群の効能が知れ渡っていたためだ。

 鹿児島県牧園町まきぞのちょう塩浸温泉しおひたしおんせん。坂本龍馬が「日本人初の新婚旅行」で訪れた温泉として知られ、龍馬が入浴した湯船も残る。現在は使われていないが、管理人の四位学さん(63)の話では、龍馬が滞在した時代は、かやぶき屋根の温泉棟があったそうだ。

 「ひなびた」という形容がぴったりの老朽化した温泉施設を利用する人は日に30人ほど。龍馬ファンらしき観光客がタクシーやバイクで訪れて、敷地内に立つ龍馬像やゆかりの湯船をカメラに収めていく。

 坂本龍馬は高千穂峰にも新妻・おりょうの手を引いて登った。現在も登山者の多くは下山後、温泉に漬かる。「きょうはどこの温泉にする」。えびの高原から高千穂河原を目指す縦走ルートの途上でこんな会話が交わされる。火山群と温泉と癒やしを求めて霧島を目指す登山者は三位一体の関係にある。

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