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ファンタジーと気分の問題

フィクションというか、広義のファンタジー/メルヒェンがいくつも備える意義の中の一つに「~という気分を象徴する」機能が存在します。

まず、われわれは現実に剣をとり魔法をつかって超自然の悪魔と戦うことはありません。しかし、仕事・試験・対人関係・スポーツ競技などなど日常生活においてまるで戦うような気持ちで物事に立ち向かわないといけない状況というのはあります。
また、われわれは現実にいきなり背中から大きな翼が生えて空を飛べるようにはなりません。けれど、なにか嬉しい事があったり心身の調子がすごくよければまるで大空へ翔け上がるようなすがすがしい解放的な気持ちになることはあります。
ファンタジーの図像はそういう心情の汲み出しをシンボル化したものとしてわれわれの目の前に現出し、日々のこころの励みたりえるわけです。

で、ここからが大事なんですが、上で述べたようなことを見落とすとファンタジーがよりそう気分の象徴を現実の行動と同じ規範によって裁くという錯誤が生じやすいんですね。
例えば、「子供キャラが命がけの戦いに身を投じるこの作品は少年兵めいたものを描いていて倫理的な問題がある」とか「この作品は単純な善悪二元論で戦争を描いている」とかそういう類。そういう批判は、つねに一理はあるんだけど逆に言うと残り九理は足りてなかったりします。
ファンタジーにおいて、敵味方がすっぱり分かれてせめぎあったり、あるいはごくシンプルな勧善懲悪が描かれるのを見て、それを現実世界における争いや裁きと同じものとして「だけ」認識するのは現実的にシビアな視点というよりも、まあ言ってしまえばファンタジーを受け取るすべの不全にあたるのです。

魔王が勇者に甘い言葉で誘いをかけ、勇者が意志を強く持ってそれを拒む。
このときキャラクターは独立した個々人なだけでなく、作品全体をひとかたまりとして、われわれが生きている間にしばしば心の中で経験する、気の迷いとそれを振り切る思いきりを追体験させてくれる例え話にもなります。
魔王か勇者か、どちらかに自分を投影するのではありません。魔王と勇者が対峙するというその光景まるごとが、ひと一人の心の中の図式なのです。
そこで象徴されるものは、別におおげさな人生の大決断にかぎりません。ダイエット中だけどお菓子食べちゃおうか、いやいや目標体重になるまで間食はしないで頑張るぞ! とか、そういうすごく身近な気持ちのゆらぎは暮らしの中でたくさんあるでしょう。ファンタジ―が寄り添う気分というのは、そういうささやかな次元まで大きく含むものです。

繰り返しになりますが、フィクション作品はファンタジーの度合いが高ければ高いほど、そこで描かれるキャラクターや出来事は劇中の現実として起きているものというレイヤーの上に、われわれ受容者に対しては「一人の人間のなかで起きうる気分の動きの抽象図」というありようを備えます。
そういう視点を加えて、あらためて向き合ってみても面白みが増すように思います。

追記:
上では受け取る側の視点によせて述べていますが、ファンタジー作品の創作者サイドにも同じ話はできまして、「ふわふわした単純なファンタジーにシビアで複雑な現実的視点をもちこんでやろう」とする了見の一部にも同様の錯誤がありえます。いやそれ実際はリアリティを上げているのではなくただただファンタジーを薄めて弱めてつまんなくしてるだけなのでは、みたいなね。
ファンタジー表現におけるシビアさというのは、むしろ単純さ=極限まで研ぎ澄まされた象徴を描くことをおそれない度胸にこそ宿るという私見を持っております。

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