母と私の事

母は、不憫な人間だと思い生きてきました。幼かった頃の記憶は、血の繋がった父からのドメスティック・バイオレンスで痣だらけの母です。

仕事帰りの事故で片脚を十数針縫う怪我をした数日後、機嫌の悪かった父にその脚を掴まれ、宙ずりになっていた母の記憶が鮮明です。


私が中学の半ばに再婚をするまでは、祖父母の元で育てられました。

母とひとつ屋根の下で暮らすようになったのは、高校二年の頃からです。


母は昔から心も体も病弱な人です。

治療に失敗した歯科系で三叉神経を壊されてしまい、今も定期的に歯髄が炎症を起こし、ひと月固形物もまともに含めなくなる事もあります。

間質性膀胱炎という持病を持って5年以上が経過しています。

香辛料や果物など、膀胱に刺激の強い食べ物や飲料は口にすることができません。発症する前に大好きだったカレーライスや炒飯も、今は食べることができません。

精神的な影響が大きい病気ですので、崩すと膀胱炎の痛みと共に排尿困難の作用が現れます。


数年前に、大病を患いました。

卵巣嚢腫という婦人科系の病気でした。当時四十代後半だった母は、卵巣の片方を摘出する手術を行いました。

数週前から下腹部の痛みに悩まされ、様子を見ていたところ、深夜に子猫がドアをカリカリと爪で研ぐような音が聞こえ、音に敏感な私が異変に気が付き部屋を開けたところ、捻転した卵巣の激痛で、母がドアの前で大きく目を見開き倒れていました。あの時の衝撃は忘れていません。


真面目な人間です。

良くも悪くも、真面目です。

なので、理不尽なことが起きると、心が折れてしまう人です。


10代の頃、酷く迷惑をかけて生きてきました。

中学生の頃、風紀が乱れていた母校は、よく警察が来ていましたし、授業に訪れた教師たちへ飛び交う罵声や私物の光景は、まさに地獄絵図で、その中で精神を崩した私の、幼い頃からの癖だった「指の皮膚を剥ぐ」行為は、「腕を切る」行為へ変わりました。

泣きながら我が娘の痛みを分かろうと、自分の腕を傷つけた母は、どれほど辛かったんでしょう。


高校は、3年になる冬に中退しました。

中学の頃、倍率の高かった進学校へ行くために、必死になって夜な夜な勉強をしていた私へ、夜食を届け、励ましてくれた母への、ひとつの裏切りだったと思います。

対人関係がうまくいかず、それ以上通うことが難しくなったことが原因でした。

自主退学をするにあたって、母と決めたことがありました。

社会に出て、周りよりも早く大人になること。

生活のリズムは崩さないこと。

高卒認定(旧 大検)を資格として取得すること。

17の冬に、大人に混ざって仕事をし始めました。

19の頃転職をして、今の会社に勤務しています。かれこれもう7年目です。


母と私は、姉妹であり、親子であり、友人のような関係でした。

再婚して現在の父と家族になるまで、彼女が私の父でもありました。

お互い頑固です。

1度喧嘩をすると、中々元に戻るのが難しい間柄です。それでも時間をかけて回復してきました。


祖母が認知症と神経障害を患ったのは一年ほど前になります。

普段から自分の体調の良くない母は、更年期障害に悩まされながら、祖母の介助をしてきました。

もちろん同居している私も。

仕事から帰ると発狂している母と混乱したように戸惑う祖母の間に割り入って、仲裁をすることが多くなりました。

仕事をしている時間の方が楽だと思うようになりました。

24時間家にいる母にとっては、それが「甘え」だったのでしょうか。

先日、旧友が不慮の事故で亡くなり、急遽地元へ母に運転を頼みお通夜へ参加して家へ帰った翌日、

ほんの些細なことで、祖母と私が対立しました。

母が起きてきて、イライラした口調で様子を聞いていた中、私が口に出してしまった「苦痛だ」という一言。

これが、母の逆鱗に触れた様子。

「こんなので苦痛だと言うなら出てくしかない」

そう言い放たれまして、私め、呆然。


じゃあ、自分はどうなんだ。

祖母が思い通りにならないからと怒鳴り散らかし、父と私に散々文句を言っているくせに、

私がそれをぼやいたら、それを許せないのか。


溝ができた瞬間でした。


不安定な精神で、自身の体調が優れない母の気持ちも分かります。分かってあげたくて、ずっとやってきました。

母のことが大好きです。

大好きだからこそ、彼女の負担のひとつに自分があるのなら、

1度距離をとるべきなのだろう、と言う結論に至りました。

昔、結婚以外で家を出る時は、「そういうことだと認識する」と言われたことがあります。

遠回しな疎遠宣言でした。 きっと私は長年それが嫌だったのです。

でも、相手がそう思おうが、私は疎遠になるつもりはないし、

「私が認知症になったら直ぐに老人ホームへ入れて欲しい」と断言してきていた母を、私が限界を超えるまでは施設に入れるつもりはありません。それは、今も変わらない気持ちです。

親子だからこそ、距離を置いて見つめなおす時期も必要だと思います。

母が何と言おうが、

私が心の底から母を嫌うなんて日は来ない。


母は、真面目で不憫な人間です。

そんな母を10割分かってあげられなかった娘の私は、彼女からすると「失敗した子育て」の成れの果てのようです。

でも、私は母を嫌いにはなりません。なるわけがない。


母が誰よりも真っ直ぐに生きてきたことを、知っていますから。


いつか、開いた溝が修復できることを願って。


宮間でした。





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