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遠藤周作『沈黙』を読んで、初めて文学の意義に近付けたと感じた


 読むスピードは早くないにせよ、小学校高学年から途切れることなく読書をしてきたし、大学も曲がりなりにも文学部を出ている。今の職業も校正なので、比較的言葉や文学について考える機会が多い人生だったと思う。
 そうは言っても世の中には大量にまだ読んでない本があり、文学は15年ちょっと慣れ親しんだ程度ではその真髄に迫れるようなものではない。むしろ簡単ではないからこそ、面白みがある、学ぶ意義があるのだと考えている。
 ところが先日ついにというか、初めて自分なりに「文学が存在する意味」や「人間が文学を求める理由」に、ほんの僅かではあるかもしれないが、近付けたのではと思った一作の小説に出会った。遠藤周作の『沈黙』である。

 『沈黙』のあらすじはこうである。
 島原の乱以後、日本のキリシタン文化は存亡の危機に瀕し、高名なイエズス会の司祭であるフェレイラが拷問の果てに棄教したらしいとのうわさが海を渡って、ポルトガルの弟子のロドリゴのもとにも伝わってくる。恩師の信仰の真実と、極東の地の信仰を灯を絶やさないようにすべく、ロドリゴはマカオ経由で長崎に渡る。
 しかし長崎のキリシタン文化は荒廃しつくし、奉行所の目を避けながらの布教活動は困難を極め、時には死罪となり殉教する者も現れる。ロドリゴもまた捕まり、奉行の井上筑後守から踏み絵をして信仰を棄てるよう諭される。
 ロドリゴはどうしてこんなにも自分や教えを共にしている人間が、艱難辛苦に悶え苦しんでいるにも関わらず、神は「沈黙」を貫き、何も答えてくれないのかと問う。そして選択を迫られたロドリゴがたどり着いた答えとは…


 我々が生きる21世紀の倫理観に当てはめれば、個人の信仰は尊ばれるべきであり、それを棄てさせるためには拷問をもいとわない、井上筑後守は「悪者」と位置付けられるかもしれない。だが江戸時代が舞台の小説を読む上では現代の我々の倫理はあまり意味をなさない。確かに『沈黙』はフィクション(ロドリゴのモデルとなった実在の司祭はいる)ではあるが、キリシタン狩りは実際にあった出来事であるし、歴史的な事象を現代の倫理観や道徳で断罪してはならないのは歴史を語るうえで鉄則だ。
 今は通信や交通などの文明も発達し、海外の人々の生活や規範を知ることは容易であり、その一部は生活圏に柔軟に合わせ、取り入れることもある。しかし江戸時代の当時、未知の世界から外見も言葉も異なる場所からやってきて、それまで信じられてきた宗教や土着の信仰を変えるよう促す人間が現れるというのは、今日の我々には計り知れない恐怖を感じたかもしれない。下手をすれば未知の侵略者に自分たちが紡いできたものやこれからの暮らしを、全て他所から来た者に奪われる可能性がある。そうなると、井上筑後守を「悪者」としてしまうのは、あまりに短絡的で、あくまでも主人公ロドリゴの側からしか『沈黙』を捉えることが出来ていないだろう。井上筑後守にも守るべき国や藩がある。そもそも実は井上筑後守自身もかつてはキリシタンであったという、異教に全く理解のないわけではないのだ。

 信仰を全うして殉教するか、棄教し生き続けるか。踏み絵などあくまで物理的な事象に過ぎず、心まで棄てることでは無いのか。令和の東京に生きる無宗教の自分には、ロドリゴや井上筑後守たちの心境は想像し推し量ることしか出来ない。しかしこれこそ文学の意味だと思った。自分とは違う立場や思想、時代、生活規範の人間を言葉を通じて想像すること。我々は他者の人生を生きることは出来ないが、文学の世界で全く別の存在、時には虚構交じりのフィクションの世界に想像して入り込むことで、疑似体験をし、考えることができる。他者の心象を完全に理解することは不可能だが、出来る限り思いを巡らせ、考えを深めることは可能なのだ。
 文学は頭の中で想像し、情景を思い浮かべなければ読み進めることは出来ない。「読む」という行動は、映像を観たり音楽を聴いたりする時のように、受動的にぼうっとしていたら終わっていた、ということは無いのだ。それだけに簡単なことではない。だがそれだけ、読者の読んだ回数だけ無限に描写が存在し、想像することで得ることが出来る「知」が大いにあるはずである。

 「知」を増やすことは、かえって「無知の知」を増やすことでもある。自分はこれを知らない、このことについてはここまでしか知らない、あの時のことは表面的にしか知らないという風に、自分の「知」を細分化できるようになるからだ。そうして「無知の知」をきちんと見つめることで、「知」はより意味を増し、やがては「知識」や「教養」や「知恵」となっていく。文学を通じて違う視点や生き方を擬似体験、もしくは追体験をすることで、それまで自分の人生に存在しなかったものを獲得できるのだろう。
 『沈黙』という1冊の小説を通じてここまで深く、様々なことを感じること出来た。もっと早く読めば良かった、そうしたらもっと早くにこうした考えに行きつけたのかなとも思うが、ずっと読書を続けたからこそ、こうした考えにたどり着くことが出来たのかもとも思う。ひとつ言えるのは、これからも読書や文学に触れ続けて、想像することで「知」を獲得したいと改めて強く思った。

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