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note執筆時 自分が意識してることメモ

 1回自分の中で、「noteをどう書いてるか」を言語化して整理しようと思い、書いてみました。
 あくまでも「note(を含めた個人ブログ)」の書き方であって、商業メディアの文章を書きたい人向けの方法論ではありませんが、すこしでも参考になれば幸いです。


テーマを羅列

 まずは書きたいテーマをどんどん出します。めっちゃ小さいことでも、反対にものすごい時間がかかりそうな内容でも、片っ端から「こういう文章が書きたい」を羅列していきます。スマホのメモ帳に「noteテーマ集」みたいなメモを作り、思いついたらどんどんそこに箇条書きするのもおすすめです。

 シンプルにその中から、今一番書きたいテーマを選ぶだけですが、羅列したテーマを、足したりかけ合わせたりすることで、面白い反応がうまれることもしばしばあります。AにBを足してCが生まれたり、AのなかにBとCの内容も組み込めたりすることも結構多いです。

まぜてみましょう


素材集め

 テーマが決まったら、まずは「素材」を集めます。書きたい内容に合いそうなエピソードや体験談、自分が感じていることや思っていること、関連しそうな作品や文献、これらをどんどん集めます。
 料理なら食材を集める段階ですが、意外とこれが大事。やっぱりいい「素材」はいい記事につながります。実際に文字に起こすより、こっちのほうが時間をかけることもあります。

 さっきのテーマの羅列と同じで、どんな小さいものも有効です。例えば映画についてのnoteなら「その映画の主題歌をあらためて聴く」くらいのものでも、れっきとした素材になります。大小問わず、具材のバリエーションが多いに越したことはありません。

これくらいの気持ちで


完成形を想像する

 「素材」が集まったら、大体の完成形をイメージしてみましょう。
 評論っぽく固く書くか、エッセイっぽく緩く書くか。画像の数、文字の分量、どんな人に読んでほしいか、などです。記事の「設計図」を組むイメージです。
 この完成形を想像していくうちに、新しい「素材」をほしくなったりもしますし、また新しい「素材」によって想定される完成形も変わってくると思います。


 書いている途中で、当初想定していた完成形からどんどん外れていくことありますが、全然OKです。むしろ「絶対この完成形にしなきゃ」という風に思わないほうが良いです。

 個人的な話で恐縮ですが、一度noteに書こうとしていた記事が、当初の想定からどんどん変貌していき、最終的にピンでやるコントの台本になったことがあります。これはさすがに極端な例ですが、これくらい臨機応変に対応していいと思います。

サクラダファミリアも2026年完成予定


まずは「書く」というより「切り貼り」をする

 完成形が見えてきましたら、書き起こししていきましょう。

 筆がノっているのであればそのままでOKですが、そうもいかないときは、先ほどの完成図をイメージしつつ、その完成図に合わせて、「素材」を「切り貼り」するよう書き方がおすすめです。

まず

素材A     素材B      素材C

と並べて

素材A(繋ぐ文章)素材B(繋ぐ文章)素材C

 と、繋げるわけです。駅と駅の間を繋げる線路を敷設する感じです。もちろんこれもいろんなルートの組み方があると思いますし、何度でもやり直ししてオッケーです。試行錯誤を繰り返すうちに、新しいルートを見つけることもよくあることです。

結末に向かって走る あの列車に乗っていこう


自分の立場を明確に

 書く内容によっては自分の知識や体験に偏りがある場合もあると思います。
 そうした場合、変に「俺にはわかるんだ」という姿勢はとらず、「Aについては詳しくない私個人の印象になるが……」「私はB初心者ですが……」「Cについて、Dさんがかつて話してことなのだが」という風に、「自分の立場」を大きく見せることなく、明確にすると良いです。
 もちろん断りをいれたからといってなにを書いてもいいとは思いませんが、かなり読者との”溝”を埋める役割を果たしていると思います。

 ネット(に限らず)で知ったかぶりをしても、いいことはひとつも無いです。自分より知識や経験を持った方は無数にいますし、ちょっとしたミエを張っただけで「信頼」を失っては、双方幸せになりません。

 人間誰しも「こんなことも知ってるんだ」と褒められたい、反対に「そんなことも知らないの」と言われたくないのは当然ですが、やはり意見を発信する上で自分を大きく見せないのは大切なことです。

自分の立場を明確に


期日を決めない

 毎日更新、毎週何曜日更新、みたいのを自分はしないようにしています。定期更新を継続出来ている人を見ると、すげーっていつも思います。

 個人ブログですから、「書きたいときに書く」が一番です。気楽にいきましょう。

 なにか一つのテーマを決めて、シリーズのような形で投稿することもありますが、この場合は「一話完結」にするのがおすすめです。シリーズではあるけど、シリーズ内の1本だけ読んでも成立カタチにするやり方です。「あと◯本書かなきゃ」みたいなプレッシャーから解放されます。

書くことに「追われる」と楽しくないので


「いいね」や「ページビュー」数は気にしすぎない

 「いいね」や「ページビュー」はあんまり気にしない方が良いです。もちろん多いにこしたことはないのですが、「数字」を気にしすぎて、過激な言動にはしるとロクなことになりません。

 個人的に、noteを含めた文章のメディアはそういった数字ととても相性が悪いように感じています。

 ネット上には「秒」で面白い、美しいと感じるコンテンツがあふれています。受け手に「読んでもらう」という能動性を必要とする、文章のメディアとは対照的です。受け手が接し、リアクションをする長さがまったく違うように思うのです。

 私のやっている、コントや講談は「1人でも多くの観客を唸らせたい」と思って高座に上がっていますが、ブログについてはちょっと発想が異なります。そもそも人文学の価値って数字には表せないと思いますし。本の売り上げが必ずしも文学的価値と比例しないように。
 もちろん「1人でも多く……」がゼロというわけではないのですが、「1人でもヲタク友達ができたら良いなー」くらいの気持ちのほうが強いです。

 「これ書いたらいいねめっちゃ来るだろうな〜」みたいなスケベ心があると、あまり良い文章にはなりません。
 反対に「1人でもヲタク友達が…」の発想が強い文章のほうが、1つのテーマに対して真摯に向き合う、良質な記事になることが多いです。

カズは気にしない


「おもしろい」より「フェアプレー精神」

 恥を忍んで書きますが、ウケを優先して、書くべきではないことが含まれた文章を書いたことが自分にもあります。

 急速なネットの発達により、様々な立場の人が様々な文章を世の中に送り出していますが、ウケたいがために過激な言葉を選んだ人間が、立場や信頼を喪失する場面を大小いっぱい見てきました。

 個人ブログにおける「失敗」は「つまらない」ではないと思います。一方でどんなにおもしろい文章であっても、「書いてはいけないことを書く」のは絶対にダメです。どんなに上手いサッカー選手でも、ハンドはファウルになります。

noteにも「ファウル」はある


思いがけない場所で、思いがけない人が

 これは書き終わってからの話です。

 noteを含めて、ありとあらゆる文章は、「思いがけない場所で、思いがけない人が読んでる」と常々実感します。

 久しぶりに会った人や、そこまで接点の多くない人から、突然「みやまるさんのnote読んでますよ」と言われることがあります。せいぜい年に2、3回ですがあります。

 「年に2、3回しか褒めらないなんて、効率が悪い」と思う方もいるかもしれません。
 ただ自分はそのわずかな2、3回だけでも「この世界の片隅に、自分の文章を発信して本当に良かった」と深く実感します。その2、3回だけで全然モチベーションを維持できるくらいに嬉しい一言です。

思いがけない人が見てる


書くことを楽しむ

 自分の考えを文章に認めることは、地味で不毛な作業ですが、その分、得難い経験値を獲得出来ます。自分の例を挙げるなら、映画に関するnote記事を書いていくうちに、1本の映画から感じることが何倍にも増えました。

 また、ごく稀に「ゾーン」に入るというか、身体が勝手に動いているような錯覚を起こすくらい、文章がものすごい勢いで書けることがあります。自分が書いている文章の世界に引き込まれるような、そんな感覚になるほど書くことが楽しくて仕方がないタイミングがあります。


 書くにしても、読んでもらうにしても、あまり「手軽」なメディアや表現方法ではないかもしれません。しかしだからこそ、丁寧に時間をかけた文章というものには、代替不可能な価値があるように思います。

 1つ書くと2つ、2つ書くと4つ、4つ書くと16本書きたくなるような魅力が文章にはあります。
 繰り返しに文章を書き、読んでもらうということは大変だけれど、本当に楽しくて意義深いことです。

「踊れ南のカルナバル」っと


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