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草木萌動 めばえいずる時

冷たい空気の中、淋しくもありますがおりんの美しい音が凛とした美しい音として聞こえた先週末、夫の母としばらくのお別れをする事になり色々と続いたお別れの儀式の区切りの日となりました。

自宅でマイペースに暮らしていたもののケガをきっかけに入院。入院以前から色々な事がわからなくなっているものの、実家に行くと孫を細い目で見て話しかけニコニコとしていたおばあちゃん。入院から自宅での生活が困難になり、介護施設へ。コロナ禍の中で、面会が出来ずやきもきしながら待つ日々。ようやく面会解除になって、面会の予約を取って会う事数回しかなかったのに、体調が急変。なんというタイミングだったのか、年末のお休みに入る頃だったので看取り面会として毎日のように会いに行き、年明けてからすぐに旅立っていきました。

照れくさいのかどう接したらいいのかわからない夫と状況の理解が難しい子どもが、どうやってこの現実を受け入れていくのか?色々と考える日々になりました。

色々と考えたけれど、私の出来る事をやっているとおのずと夫も子どもも自分たちの出来る事をやり始め、母に祖母にしてあげたい事を自然としていく…そんな流れが自然と出来てきて変な話、不思議…そんな事を思ったりもしました。

いつも穏やかにニコニコしている母…。それだけじゃない母を感じる時間のありました。写真の中の母は、お転婆で活発だったのかもしれない。その母が、色々な人からのエピソードを聞く中で、今の母になっていった。そんな事もわかるひと時だったり…。
夫は夫で、子どもの頃からの自分の今までをふと振り返り、これが母からもらったものだったと気づく瞬間などもあったり…。
時の流れを不思議だな…と思ったりもしました。

子どもが大人をひょいと超えていく、そんな瞬間もありました。どうしたらいいのかわからない夫の手を引っ張ったり、泣く祖父のそばにそっと寄り添ったり…。そこで大人対大人じゃなくて、子どもだったからこそ、この子だったからこその役割…のような事、それを自然と人は感じるんだ・出来るんだ…そんな事を思ったりもしました。

真面目に!?喪に服していたわけじゃないけれど、喪に服すという事がどこからでどこまでというのがないのかな…という事を思ったりもしてました。
日常は続いているし、変わらない日常もあるけれど、変わったような日常もあるから…。

そして喪に服す…というか、亡くなってしまったのか?生きている何かがあったりするんじゃないか?(いや、ホラーじゃなく…)と思ったりもします。子どもも学校でおばあちゃんの話をしてまだ涙目になるようだし…。

いつまでも生きていて亡くなっている。亡くなっていて生きている。
そんな感じなのかな。

こんな時だからこそ!?というか、家から出る気もなくて、我が家だからこそのこの重苦しい雰囲気という事を軽くしようとしたここ半年ぐらい。(文字にしてみると半年あったんだなぁ~と思い返す…今。)

私は、十分に与えてもらった時間がありました。その中で、少しずつ私自身の変化がありました。これも不思議。
でも、ものすごいプレゼントを夫の母からもらったような気がしています。

今日は、二十四節気「雨水」の末項の「草木萌動(そうもくめばえいずる)」が始まる日だそうです。
雪から雨に変わる季節に降る雨によって、雪山から栄養をたっぷり含んだ水が流れ出て、その水を頂いた草木が芽吹く時のようです。
私たち家族もそうでありますように。

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