見出し画像

民主主義の機能不全は教育の階層化が原因

 トッドによれば、民主主義は「歴史の流れの中で発生する社会のある『時期』のこと」を指します。具体的には、識字率は高いが高等教育を受けている人はまだ少ない時期のことで、そこで、文化構造的に均質な社会、そして民主的な政治形態が生まれると言います。

 その「民主的な政治形態」になる前のある種の社会の気質、社会に存在する潜在意識のことをトッドは「民主主義」と言います。

 民主主義制度は民主的な気質が機能して形成されたものであり、それが現在のような政治形態になりました。

 このように識字率の高い時代に続いて、教育格差の時代が到来します。

 現在は、初等・中等教育、高等教育の発展が著しく、その特徴は、この高等教育のレベルがさらに何層にもなっているということです。その結果、お互いは不平等な関係であるという潜在意識が広がり、学歴・高等教育の種類などで区別されることになりました。

 文系・理系のどちらが頭がいいかとか、Fラン大学などといったランク付けは、ネット言説や週刊誌の見出しでうんざりするほど見かけます。自らの履歴により私たち一人一人が社会的序列の中に位置づけられ、国民が全員一列に並ばせられる「不平等」な関係が見られるかのようです。

 ではエリートとは何か。まず思い浮かぶ例としてペリクレスを紹介します。

「ペリクレスは貴族階級を代表し、同時に大衆の民主的なものへの願いを汲み取った人物です」

 また、19世紀のイギリスで投票権の拡大に貢献した人たちもエリートと呼べる人々で、民衆を選挙システムに組み込むことを受け入れました。

 さらにフランス第三共和政の時代がうまく機能したのもこのようなエリートがいたからです。当時のブルジョア階級の一部には、民主主義は良いシステムであり、自分たちこそ、民衆の願望を代表する立場なのだという考えの人々がいました。

 ここで「ノブレス・オブリージュ」という言葉が浮かびます。

 このように「昔はエリートというのは社会の一部の、非常に頭の良い、高学歴で社会的責任感を持ち、同時に国家に対する責任感にも溢れた人々」と言います。

 しかし、古き良き時代にその階層の持つ矜持は今や消え去りました。

「フランスでは、その学力においての競争力は、知的な開花を目的とするのではなく、ある社会階級がその階級をいかに効率的に再生産できるかという問題において重要な要素になっ」たといい、その条件が高等教育を受けることであると。本当に優秀な子供が高等教育を受けているわけではない、それは寄付金をたくさん出せば手に入れられるからだとも言います。

 現在はある種の文化的集団であり、似たもの同士の集まりで、皆が同じ思考をもっている『集団エリート』ともいうべきものになっていると言います。

 さらにフランスやアメリカでは「社会の下層部は遅れている」という言説に溢れています。

 「社会の上層部にいるエリートたちは(中略)自分たちは下層の人たち(貧困層や移民など)とは異なっている、と感じている人も多く存在しています」。

 もはやエリート層は非エリートである大衆の声を汲み取ろうとしません。

 イギリスのジャーナリスト、ディヴィッド・グッドハートの言説を引用し、現代社会には二つのカテゴリーがあると言います。

 一つ目は "Anywhere" と言い、世界の様々な場所を旅し、グローバル化したエリートたちを指す。

 もう一つの "Somewhere" はいわゆる社会の下層部にいる、特に地方に暮らす人々を指す。

 この分断を克服するには相互に非難するのに終わらず、さらにその上を目指した「交渉」を行わなければならないと言います。我々に提示された道は二つあり、一つは「交渉の道」、もう一つは「完全な社会の崩壊の道」です。

 この「交渉の道」に近いのはイギリスではないかとトッドは言います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?