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マイケル・ヤング「メリトクラシーの法則」

 本田由紀の指摘にある「メリトクラシー」の訳語は、ヤングの生まれたイギリスと日本では意味合いが異なるという。

 「メリトクラシー」は1995年にピーター・サウンダースが発表した「イギリスはメリトクラシーではないのか?」の論文をきっかけとして論争が起きた。イギリスにおける社会階層間の流動性/非流動性は、出身階層間で生まれつきの「能力」の分布が違うことによって説明できるとし、イギリスは十分にメリトクラティックな社会であると主張した。

 このサウンダースの主張を否定する論者グループによれば、確かに「業績(主に教育歴)」と「地位(主に職業・収入・社会階層)」が観察されるにしても、そもそも「属性(主に出身家庭・生得的性質)」と「業績」の関係と、「属性」と「地位」の関係が強力なため、イギリスは依然として「属性」が支配する社会であり、個人が達成した「業績」が支配的基準であるべき「メリトクラシー」から乖離しているという。

 また、新聞の求人広告の内容を分析したところ、どの職種でもソーシャル・スキル(日本でいうコミュニケーション能力に近いもの)や個人的な性格が求人要件として記載されている場合が多く、雇用主は、非メリトクラティックな属性を採用基準として重視しているという。

 イギリスにおける「メリトクラシー」の意味合いは、個人の業績としての教育歴や公的資格が地位を決める社会という意味で捉えられ、それ以外の家族背景や生得的性質が選抜に混入することは、それからの逸脱とみなされているということである。

 それに対して、日本の「能力主義」は、とにかく「能力」があるものが勝つ、あるいは誰かが勝ち誰かが負ける理由を「能力」という言葉で説明する、さらには公的な教育歴は「能力」の証明の必要条件とされる場合が多いかもしれないが、十分条件でないことを当然視する、という考え方である。

 結局何もかも「能力」で決まる(べき)と考えられており、そして「能力」は誰かが勝った後でその誰かに周囲が与える称号のようなものである。

「後出しジャンケンのような『能力』は、疑念をはねつける最強の言葉である」

 このように「メリトクラシー」についての認識自体のズレは、政策や制度を介して社会的現実の相違にも反映されているという。

 たとえば、多喜弘文の紹介する教育制度の類型を見ると、先進国にはバリエーションが多く、水平的多様性が存在するが、日本は「受験競争モデル」として捉えられ、後期中等教育の学校間格差が大きいことが特徴的であるとしている。

 しかし、「どこの国でもメリトクラシーは同じである」と誤認されてしまい、日本の特異性も他国の実情も十分に理解されていない状況が日本では生まれている。

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