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世界最高レベルの知的スキルを持つ日本の若者と「能力」の言霊

 OECDによる報告書によれば、日本の特に若者は、単に読解力・数学・科学といった知的なスキルが高いだけでなく、他者との協力に基づく課題解決という、より柔軟なスキルについても、世界の中で最上位クラスである。

 日本の15歳の生徒についての調査では、テストへの不安は強く、学ぶことに楽しさや効力感については希薄である。

 他の若者についての調査では、自分への満足度、自己肯定感、将来への展望などについて、日本人は最も肯定的に捉えておらず、逆に「つまらない・やる気が出ない」「ゆううつだ」と感じた割合は最も多い。

 別の若者への調査についても、生活のストレスが多いという回答が多く、親世代よりも生活水準が上がるだろうという回答は調査対象国中最下位である。

 たとえ日本人の特徴として「謙虚さ」を表に出したがる傾向があることを考慮に入れても、日本の若者は、少なくとも先進国中では最もと言っていいほど、ネガティブさ、暗さ、不安が色濃い。特に在学中の年齢層の若者において否定的な意識が強いことからは、日本の教育のあり方がその一端を担っていると言える。

 人間の「望ましさ」に関する考え方は、歴史的な軌跡の中で「垂直的序列化」と「水平的画一化」の独特な組み合わせを特徴とするシステム構造を展開する形で、普及拡大を遂げてきた。

 「垂直的序列化」とは、相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味しており、近年に至って、その「能力」基準の内容が複数化している。

 従来から存在する基準は「学力」、新たに重要になっているのは知的側面以外に関する「生きる力」や「人間力」である。

 #この前者を「日本型メリトクラシー」、後者を「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶ。

 「水平的画一化」とは、特定の振る舞い方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。

 これは具体的には、健在的・潜在的な「教化」の形をとる。

 それと不可分な言葉は「態度」および「資質」である。

 新たに学校現場の全体を巻き込む形で制度化された「教化」を「ハイパー教化」と呼ぶ。

 相対的な差異に基づく「垂直的序列化」は、縦の目盛り上でできるだけ高い位置につこうとする行為を人々の中に生み出す、能力の絶対水準の高度化と上位への圧縮をもたらし、一方で下位として位置付けられる層を必ず生み出す。

 「水平的画一化」も、1か0かの二値の性質を持つため、少しでも1でない存在を0とみなし否定的に扱う力学を含む。

 この二つの支配のもとで過少になっているのが「水平的多様性」で、特に高校で顕著である。

 この人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な対応を阻害する。

 なぜなら、過剰な二つの序列化・画一化という力学は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向がある。

 この特徴を生み出したのは、法律・政策・制度と、その中で普及・定着してきた「能力」「態度」「資質」という「望ましさ」を言い表す言葉、そしてこれらの環境条件の中での人々の「合理的」な行為の集積との間の相互作用である。

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 日本の教育における「垂直的序列化」の支配については繰り返し指摘されてきた。

 その中で多用されてきたのは、生得・後天の両面を持つ個人内在的な性質に関する上下の差異化を意味するものとして用いられてきた「能力主義」である。

 その含意が「垂直的序列化」を促進・正当化してきた。

 「メリトクラシー」(meritocracy)はイギリスの社会学者マイケル・ヤングの造語で、「貴族支配」(aristocracy)や「富豪による支配」(plutocracy)になぞらえてメリト、つまり能力のある人々による統治と支配が確立する社会のことをいう(竹内洋)

 「メリトクラシー」は「業績主義」とも訳されるが、「能力主義」に比べて検索ヒット数がだいぶ少ない。

 メリト(merit)の意味を英和辞書で調べても、「能力」は存在しない。

 にもかかわらず「メリトクラシー」が「能力主義」として社会に浸透している。

 調査によれば、給与の決定条件として教育訓練の年数が重視されるべきであるということへの肯定度が、事実認識としての「努力」や「能力」の尊重の度合いへの肯定度を上回っている。

 しかし日本では「能力」が重視されているという事実認識の肯定度が高い。

 教育歴とは、努力や能力そのものではなく、それらが教育制度を潜り抜けることで明確な形をとって公式に可視化されたものである。

 英語では qualification(資格)もしくは certification(学歴)という言葉で表現される。

 個人の教育達成を公式に証明した事柄、つまり過去の「業績」が、他の諸国では人々の評価基準として重視されている。

 メリトクラシーの訳語は「業績主義」の方が適切と思われる。

 人類学者ラルフ・リントンは「天賦の才」と「努力」が結びついたものを「業績的地位」(achieved status)とし、性別・年齢・血縁関係など誕生時に決定されてしまう「貴族主義的地位」(ascribed status)と対比していた。

 それに対して社会学者タルコット・パーソンズは個人の鋭意・成就(performance)に優位を置いた評価を与える場合を「業績主義」、性能(quality)に優位を置いた評価を与える場合を「属性主義」とした。

 共通しているのは、「能力」だけでなく努力などが介在して具体的な成果として現れたものを重視する状況を「業績主義」とみなしていた。

 そして社会の近代化とともに、「属性主義」から「業績主義」への移行が生じると論じていた。

 それに対して「メリトクラシー」を「能力主義」と言い換える日本では、個々人の「性能」としての「能力」が重視される度合いが極めて強いのであり、これはパーソンズの用語法にならうなら「業績主義」の対極にある「属性主義」の思考に陥っていることになる。

 日本の「能力主義」は、属性によって左右されていようがいまいが、あるいは公的に証明されていようがいまいが、とにかく「能力」がある者が勝つ、あるいは誰かが勝ち誰かが負ける理由を「能力」という言葉で説明する。

 その様子は、誰かが買った後でその誰かに周囲が与える称号のようなもので、後出しジャンケンのような「能力」だ。

 ところで、児童生徒の中に固定的な「能力差」が存在することを「差別」として否定する見方が、1950年代の終わり頃から学校教員間に広がり始めていた。

 この見方は1963年の経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」に対する教育界からの批判の中で決定的なものとなった。

 「生徒たちに差別観を与えないためには、誰にでも同じ評価基準を適用することが重視される。

 そのために、多元的な評価基準の導入よりも、同一の基準で評価することが平等な教育であると理解された。

 評価における形式的な均質化を図ることが平等であると考えられるようになったのである。

 それが皮肉にも、単一の、「客観的」な基準で測られる学力の一元的な序列化を強化することにつながったのである」

 しかし教育現場が能力差を忌避しながら、なぜ同一の基準で評価することには忌避的ではなかったのか。

 教師が児童生徒に差別観を与えないようにしたことが、一元的な垂直的序列化を強めたことの原因であるという解釈には無理があるのではないか。

 それ以降も1971年の日本経済調査協議会報告書、1991年の中教審答申など、日本における教育が垂直的序列化に偏っている実態を、水平的多様化に転換する必要は繰り返し提唱されてきた。

 しかし、日本の基本構造は、現在に至っても大きくは変化していない。

 いくら改革を試みても、日本に生きる私たちの発想は、常に垂直的序列化の方に引き戻され続けてきたのである。

 その理由を「能力(主義)」という言葉そのものに求めることができるのではないか。

 日本における「水平的画一化」の圧力に関し、ISSP2014データから「良い市民であるために何が必要か」を尋ねた質問における「意見の違う人の考えを理解すること」という項目と、民主主義における権利を尋ねた質問における「政府のすることに異議があるとき、それに従わない行動を取ること」という項目の二つについて、「とても重要」という回答は、先進諸国内で最低水準であった。

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