NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」がすごかった

「今日は何年の何月何日ですか? 何曜日ですか?」
「100-7はいくつですか? そこから7を引くといくつになりますか?」

こうした質問から、点数式で簡単に認知症の程度を評価することができる「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発した精神科医・長谷川和夫氏が認知症になった。

そのこと自体は、何かで読んで知っていたのだが、先日放送されたNHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」をみて、認知症研究の第一人者が、認知症とは何であるのかを身をもって伝える姿に衝撃を受けた。

かつて、「君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する」と先輩医師に言われたという長谷川氏。それでも数々の業績を残されてきた高名な医師が、いつか自分のこともわからなくなるかもしれない姿を晒すことに、どれほど勇気がいっただろう。

加齢とともに物忘れが多くなっていくというのは誰にでも起こる老化現象だ。「忘れた」ということすら忘れてしまうようになると認知症だといわれている。長谷川氏も日記に、「忘れたことも自覚しない点で立派な認知症だ」と綴っていた。ずっと研究の対象、診療の対象であった認知症に、自分がなったと自覚したのだ。その後、長谷川氏は認知症であることを公表し、認知症の専門医であり当事者という立場で講演活動などを続けている。すごい。

長谷川氏は、認知症であることの実感を「生きているうえでの『確かさ』が失われていく」と表現していた。「自分が壊れていく」、それを「十分にではないが、ほのかにわかっている」状態だという。専門家であり当事者である長谷川氏だからこその的確で豊かな表現であり、腹に落ちるような感覚で理解できた。

いや、「理解できた」とまでは言えないかもしれないが、わからないがゆえに怖さのある認知症について、「何となくわかる気がする」というだけで、とても大きなことだと思う。

取材開始から半年、長谷川氏は自身の口数が少なくなっていることについてこう語った。「今こういうことを言っていいのか、言わないほうがいいのか自信がなくて、寡黙にならざるを得ない、自分の殻に閉じこもってね」。おそらく医師として診療していたときには、理解できていなかったことへの気付き。さらに、当事者になったからこそ知ったのが、デイサービスの未成熟さだった。

長谷川氏は、妻の負担を軽くしようと利用したデイサービスを、参加した後すぐにやめたいと言い出してしまう。デイサービスで全員参加のゲームに何とも嫌そうに参加し、他の利用者とテーブルを囲んでも憮然とした表情で過ごす姿に、大きな不満が見てとれた。

認知症のデイサービスはご自身が40年前に提唱されたのだという。「家族の負担を減らすため」「認知症患者の精神活動を活発にするため」に、これはいいものだから是非と勧めていた。それが現実にはどのようなものであるのかをこのとき初めて知ったのだ。

もちろん、デイサービスの現場では、限られた人員と環境のなか、進行度合いの異なる認知症患者に対し、入浴や食事のケア、レクリエーションなどが工夫して提供されている。介護する家族には本当に助かるサービスだ。それをふまえても、「何がしたいですか? 何がしたくないですか? そこから出発してもらいたい」という当事者の言葉は重い。

長谷川氏は「嗜銀顆粒性認知症(しぎんかりゅうせいにんちしょう)」という比較的進行が緩やかとされる認知症だが、番組で追った1年少しの間にその症状は目に見えて進行していった。眠りがちになったり、転倒して顔に傷をおったりと、肉体的な衰えも進んだ。

けれど、たびたび映される、馴染みの喫茶店でサイフォンで入れたコーヒーを味わう姿や、妻の瑞子さんが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」を眼を閉じて幸せそうに聞く姿は、病気が進行しても変わらないことに気付く。認知症になっても、その人が築いてきた生活の楽しみや文化に親しむ心が消えてなくなってしまうわけではないのだ。

娘のまりさんも最初は確かさの失われていく父親の姿に戸惑っていたが、寄り添う日々を重ねるうちに、感情表現が豊かで人を楽しませることが好きだった父親の本質的な部分は変わっていないと思えるようになってきたと語っていた。

番組の終盤、娘のまりさんのことを妻の瑞子さんと間違えるまでに進行した長谷川氏が語った認知症への見解はこうだ。「心配はあるけれども、心配をする『気づき』がない。神様が用意してくれたひとつの救い」。

とても意外だった。「ボケて何もわからなくなるのって案外幸せなものなのかもね」。よく言われるこの言葉が、私にはどうにも信じられなかったからだ。けれど、認知症を誰よりもよく知り、当事者としての葛藤を言葉にしてこられた長谷川氏が実感としてそう言うのなら、それはひとつの救いなのかもしれない。


#認知症 #NHKスペシャル #介護


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