煙はいつもの席で吐けたらいいんだけど

きのうの朝、喫煙所に寄ったところで、煙草をきらしていることに気がついた。

記憶ではもう一本あったはずだった。でも何度見ても箱の中はからっぽだ。こういうところから衰えははじまるのかな、と思いながらすごすごと喫煙所をでた。

途中のコンビニに寄って、店員さんをわずらわせないようにとレジ奥の煙草の棚を覗きこみ、番号で注文しようとした。

が、棚を上から下まで順に見ても、一向に自分の銘柄がみつからない。おかしい。定番中の定番のはずなのに。

ついに店員さんに「ハイライトってないですかね?」ときいてしまう。店員さんも見てくれたがやっぱり見つからない。

そのうち、ハイライトのメンソールの横がぽっかり空いてるのに気がついて、あれじゃないですか?と指さすと、店員さんが在庫をみてくれた。「すみませんちょうどいまきらしてるみたいで」。昼の配達でくるという。了解し、マルボロのメンソールを買って出た。メンソールはこれと決めている。しかし510円はたかいなあと思いながら、かばんに放りこむ。

ひさびさにすったメンソールはすうすうした。
あたりまえだろうと言われそうだが、記憶の倍はすうすうしてびっくりした。喉がつめたい。すいこむたびに驚く。

それにしてもいまの十代後半から二十代の嫌煙意識といったら、他の年代に輪をかけてすさまじく、恋愛市場では喫煙者だと知られたらその時点で足切りされてしまう感がある。

むろん、それだけが原因ではない。というか、それはほんの一要素にすぎない。わたしに関して言えば、恋人ができないのは、わたしが愛情に関してけちだからだ。与えてもらってからでないと心を許さないからだ。

でも女が煙草をすうことに関しての忌避感というのは、普遍的にある気がしてならない。実感として。あるていど本能的な反応なんだろうな、とわかってはいる。

わたしとて喫煙所に女のひとがいるといまだにどきっとするし、それがきれいなオフィスカジュアルの女性だったりするとますますいたたまれなくなる。その人の業の深さ、というか、物語、みたいなものを、勝手に感じ取ってしまうのだった。女のひとからすればいいめいわくだ。

自分にだってそんなだいそれたものはなくて、ただなんとなくすっているだけにすぎない。すいはじめのころは精神的につらいときにだけすっていたが、いまはただの手癖だ。

ただひとつ悩みがある。煙だ。

アイコスをはじめとした電子たばこのたぐいが口に合わない身としては、煙の処理にたいへん苦慮している。

喫煙席と禁煙席が分けられているところは、まだいい。問題は、ごちゃまぜのところだ。

たとえば喫煙オーケーの居酒屋。ああいうところは分煙という概念がないので、どの席も好き放題たばこをすっていいことになっている。

こまる。気が小さいわたしは煙の吐く方向に非常に気をつかうのだ。隣も喫煙者ならおたがいさまなので勝手にやるが、そうじゃないときのほうが圧倒的に多い。

なるべく天井に向けたり壁に向けて、ふかさず肺に入れてから吐く、と決めてはいるが、きっと煙草が嫌いな人はわずかなにおいでも感じ取っているに違いなく、ごめん、とむやみに心の中であやまりながらすうはめになる。

そんならすわなきゃいいじゃないか、と思うだろう。ただしい。でもわたしは、やるなと言われると振りほどきたくなる、しょうもない種類の人間なので、つい火をつけてしまう。いっしょに行くひとがすってかまわないと言えば、そのほかのひとのことはないがしろにしてしまう。とりあえず苦しみながらすっているということだけ知ってほしい。そんな小賢しいいいわけ。

#日記 #エッセイ #煙草 #喫煙 #安藤裕子

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