見出し画像

大人達が貪る

さいきんBINにはまっております。3人組の音楽ユニットとのこと。中性的なボーカルに、アンニュイな……マイナー調っていうの?翳のある曲調がね、すごく好き。本物の少年には漂わすことのできない少年感がとてもいい。「チルドレン」とか聴いてると、ああ若いなと思って、この若さの記憶や実感が自分から薄れていることにも気づく。大人は敵だとか、大人は汚いとか、いやあ、もう、とても本気では思えないよ。お約束としてというか、一般論としてはわかるけど、魂の籠った感覚はない。

そもそもわたしはもともと、大人が汚いという感覚は持っていなかった。汚いのはその人間自体であり、大人であるか子供であるかは関係がないと思っていた。小学生の同級生でも、ずるくて意地が悪くてどうしようもない悪人みたいなのはいたし。意地の悪い大人は、意地の悪い子供が大きくなっただけ、というのが大半だと思う。若い人間が大人への鬱屈を抱く、という様式は理解できるけど、わたしの実感はないのだった。

自分の中にない感情だからこそ、へんに恥ずかしくもつらくもならずに面白がれるのだ。いいね、そういうの、と。
大人も子供も、好きにすればいい。その結果愛されようが憎まれようが、それはその人が負うべき業だ。わたしもあなたも、自分が選んだその結果を負って生きて、死んでいくのだ。たとえばいろんな面倒ごとを人任せにした人間は、「面倒ごとを人任せにした主体性のない自分」というものを生きて、死ぬ。結構。大いに結構だ。私情を言えば自分はそういう生き方はしたくないけども、そういう生き方をする人がいてもいい。

こと自分に対してだけ抱く感情だが、何かを生み出していないと生きている意味がない、と長らく感じてきた。何かというのはわたしの場合小説で、小説を書かないと自分がダメになるような気がしている。無駄に生きているような気がしてしまう。いまだにその焦燥感から抜け出せない。小説を書かなくなる人生があってもいいじゃないかと心のどこかで思うのに、わたしの核心がその選択を激しく拒絶する。書け、と言う。才能がなかろうと商売にならなかろうと、そんなことは関係ない。死ぬまで書き続けろ、と、叫ぶ。

物語を書いてこそ本当の自分になれるのだと思い込んでいるのだと思う。煎じ詰めれば、わたしが書く理由は自分探しなのかもしれない。自分の知らない自分。永遠に焦がれ続ける存在。ばかばかしいくらい、切実なのだ。

(今日のBGM・タイトル引用)
BIN「悪食」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?