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レンガ積みで幸せを感じられる社会にしたい

ミヤケです!

最近とっても嬉しいことがありました。
後輩の中の1人と最近よく話すんですが、ブレイクスルーしそうです!
自分の痛みや過去の痛みと向き合い、自分の正しさと相手の正しさを統合しようとしています。
昨日は感動してなかなか寝付けないほどでした。

そんな後輩との会話の中で、僕自身も成長機会を沢山頂いています。
これまで言語化できなかったこと、感覚だけに頼っていたことを自分の中で体系化したり誰かに伝えたりすることで、認識の範囲が広がりつつあります。

今日は後輩の成長・・・ではなく、僕自身の成長というか言語化できたことについて書こうと思います。

世界は一つじゃない

後輩がとある書籍の数ページを共有してくれて話が始まりました。
その本は、2人の会話で展開していて、話が最後まで噛み合わないまま進んでいくものでした。

「この内容、どう思いますか?」

そう聞かれ、しばらく黙り込み、僕はいつものように考えながら言葉を出していきました。

まあ、よくあるシーンですよ。
2人で話してて、テーマが同じはずなのに、なぜか噛み合わない。
片方が踏み込むと、もう片方はスルリと交わしていくようにして逃げる。
でも、逃げているつもりはない。

仕事をしていても、家庭生活をしていても、こんなことは誰しもが経験したことのある内容です。
相手と完全一致していて・・・というケースは残念ながら人間である以上ありえないと思っています。

僕がそんな状況の時、何を考えながらコミュニケーションをとっているのかというと、

・世界は人それぞれ
・世界は人の数だけある
・世界は大きな何かに支配されているわけではなく、
 その人自身が世界の中心にいる

僕から見える世界は、中心に僕がいて、仲間がいる。
相手から見える世界は、相手が中心にいる。

そもそも世界なんていう大きな主語で全体を把握することなんて無理です。
高性能なAIでさえ、世界の全てはまだ理解できていないのだから。

要は、「世界」と言われている有象無象の現象があり、それを人間がどう見るかによって、見え方も色も形も変わってきます。

例えば、僕の世界には、
・高齢者
・子ども
が割と強めにいて、
・ファッション
・最新音楽
・盛れる写真
は弱めにいます。

僕から見える世界には、高齢者と子どもがたくさんいて、
辛い思いや苦しい思いをしている高齢者と子どもが存在感強くいます。

これがもし、僕のとある友人の世界であれば、
・ラーメン
・EDM
・ボルダリング
が世界の中心にあり、
・教育
・福祉
・プログラミング
は世界の端っこかあるいは世界に存在していません。

自分の世界の中心には自分が立っていて、
自分から見える世界に何があるのかを捉えると、
まあ、完全に捉えるのは難しいですが、
色の濃いものだけでも捉えてみると、
自分にも優しく生きられる気がしています。

目的と手段の持つ「正しさの罠」

僕の嫌いな話を紹介します。

タイトル回収にもなりますが、
【レンガを積んでいる職人の話】です。

すげー簡単に書くと、
3人のレンガ職人に「あなたは何をやっているの?」と聞いたときに、それぞれが、
①レンガを積んでいる
②教会の建設をしている(教会を作るためにレンガを積んでいる)
③文化を作っている(教会を作り、この町の文化にする)

と答えていくものです。確か。

勘のいい方ならわかると思いますが、この話は①を揶揄しつつ、③の大切さ、つまり目的を持つことの大切さを説いた話です。

入社式やビジネススクールなんかでも引用されることの多い話なので、知っている人も多いと思います。

僕は、この話が嫌いです。
とっても嫌いです。

嫌いであり、僕の世界には無い価値観です。

なぜ、①レンガを積んでいるではなく、③がいいんでしょうか?
それはすなわち、個人がしっかりと目的を持つことで、目の前の手段である仕事に意識高く取り組めるから、より高い成果が得られる。
そんなとこでしょう。

これこそ、僕が嫌いなところです。

①レンガを積んでいる
これで、いいじゃないですか。
何よりこの人は、実社会に飛び込んで、目の前の仕事を一生懸命に自分なりに取り組んでいます。
話しかけられても、「レンガを積んでいる」としっかり自分の言葉で伝えられているし、立派な大人ですよ。

僕は③を皆が目指すような社会に、温もりはないと思っています。

①でも②でも③でも、それぞれがそれで幸せならば、それでいいじゃないですか。
目的なんてものは、持ちたきゃ持てばいいし、持たなくていいんですよ。

目的を持つのが正解、正しいなんてことはありません。

目的なんて考えていないけど、目の前の仕事、与えられた仕事をこなしているけど、とっても幸せ!!

そう思えた方がいいじゃないですか。

まあ、これも僕の世界での価値観なんですけどね。
でも僕はやっぱりそう信じています。
そう信じあえる仲間と一緒にいたい。
目的、くらいのことで人を分断し、強要し、正しさを押し付けるような仲間はいらない。

そのままで、そのままいるだけで幸せだと感じられる社会にしたいです。

僕の世界の幸せな仲間たち

僕の世界には、目的が中心地にありません。
比較的郊外にあります。

介護事業、学習支援事業をやっていますが、
仲間たちは皆んなどれくらい目的意識を持って働いて活動しているでしょう。

もちろん、社会に寄与したい、貢献したいと思っています。全員。

でも、仕事や活動の最中、どれだけそれを想い、③の人のように瞬時に答えられるか、といったらわかりません。

・おじいちゃんおばあちゃんが喜んでくれるから・・・
・同僚が喜んでくれるから・・・
・子どもが嬉しそうだから・・・
・親御さんが喜んでいるから・・・

最高です。
素晴らしいです。

それでいいんです。

①あるいは②で十分じゃないですか。
というか、それ以上があることが想像できないし、要求したくもありません。
最大到達点ですよ。

思いのまま、そのままに、自分の感覚で、やりたいことをやって、過ごして、それで幸せなら最高じゃないですか。

目的を仲間全員に考えさせるくらいなら、
目的を考えなくても幸せに過ごしてもらえるようにしたいです。


それが僕の人生の目的なのかもしれません。


<終わり>


シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。