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そして「挑戦」は形を変えて繋がる〜大学生⑬〜

箱根駅伝の予選会が終わりました。

本戦に出る夢は叶わなわず。予選会敗退は同時に大学院生と4年生の引退も意味します。勝って終われない引退は後味が良いものではないのですが、それを受けいなくてはいけないのもまた勝負の世界の常。願っても望んでも過去は戻ってきません。

今回の主役ともいうべき3人の大学院生たちは、泣きながらも健闘を称え合っているように感じました。共に夢を追いかけて人生の一部を箱根駅伝のためにささげ、人生の舵を思いっきり切って箱根に挑んだ3人。言葉では伝わらない気持ちのやりとりが3人のなかであったと思います。「勝てなかったけど俺たちはよくやったよな」そんな吹っ切れ感のようなものが見えました。表向きには・・・

ところが、つくばに戻っていつもの集団生活が始まると異変にすぐ気づきました。とにかく空気が重い。ドーンとした感じの空気になってしまい、チームがガラッと変わってしまったような感じすらしました。

理由は簡単。これまで大学院生の存在感があまりにも大き過ぎたからです。チームに与えた影響は計り知れず、先輩たちが元気なときはとにかくすごいパワーをたくさんもらっていたのですが、状況が逆転すればマイナスエネルギーをまともに受けてしまいます。

レース後は疲労感や興奮でまともに何かを考えることってできなかったんでしょう。いつもの生活に戻ると途端にいろんなことを考えてしまって、落ち込んでしまう。。。そんな感じだったんだと思います。

当時、成瀬さんは食堂と隣り合う部屋に住んで管理してくれていました。予選会後先輩たちは朝練に出てこなくなりましたが、僕たちが練習を終えて食堂に向かうと、成瀬さんの部屋は「開かずの間」のようになっていました。そして、言葉の誤解を恐れずにそのまま書くと、「黒いオーラ」が出ているような、そんな雰囲気がさえ感じました。

当時の成瀬さんは

「俺のわがままにいろんな人の人生を巻き込んでしまった」

と悩んでいたようです。今ではその当時のことも普通に話をしてくれますが、相当しんどかったんでしょうね。工夫と情熱があれば道は拓けると本気で思っていたからこそ、夢が破れた現実を突きつけられるのがとんでもなく辛かったのだと思います。そして部屋に閉じこもって出てこない成瀬さんに笑って声をかけることはとてもできませんでした。

■皮肉な自己ベスト

ただ、その当時僕はまだ一年生、良くも悪くも凹んでいる暇はありません。もともとエントリーしていた東海大記録会に出ました。予選会から1週間後のことです。そこで10000mに出たらなんと自己ベスト。皮肉なもんですね。

今だから言えるのは、とにかく練習で追い込みすぎていたと思います。余裕がなくてとにかく強化!強化!!強化!!!の連続で、大事な調整を十分に取れていませんでした。その風潮はチーム全体のものであり、軒並み予選会で崩れてしまったのはそのせいだったと思います。

予選会後の休養期で走らない日を作った結果、その翌週に自己ベスト。ピークがズレてしまっていたのは明らかです。もったないですね。。。というか、それにすら気付けないほど追い込まれていたと思います。

調整期の大切さはこの時にまじまじと実感しました。

■鐘ヶ江さん

チームの中では明るいニュースもありました。

4年生の鐘ヶ江さんが学連選抜チームに選ばれたのです。前年も選抜チームのメンバーに選ばれていたので2回目。山登りを経験していたので、その年も「山要因」として召集されたようです。

ただ、鐘ヶ江さんもまた、最後の箱根駅伝に敗れチームで出場するという夢が叶わずに卒業していく4年生。複雑な気持ちもあったと思います。

「チームで出る夢は叶わなかった」
「自分だけが箱根を走って良いものか」
「しかも自分は卒業していく身」

そんな話を小耳に挟んだ記憶がぼんやり残ってます。

結局、鐘ケ江さんは選抜チームのオファーを受けて箱根駅伝を走るという決断を下してくれました。相変わらず鐘ケ江さんは練習でも強かったですが、予選会前とは雰囲気が少し違いました。平たくいうと、抱えるものが無くなった状態。チームの最上級生でもなければ、予選会の時のように周りのメンバーを気にして走る必要もない。それは悪い意味ではなく、良い意味で。

鐘ケ江さんが箱根駅伝の歴史に名を残したのは2ヶ月後のことでした。


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