箱根駅伝素材

仲間との衝突の先に〜大学生㉞〜

今年も箱根駅伝が終わりました。レース自体は終わりましたが、駅伝にまつわる様々なエピソードが出てくるのはこれから。まだいくつも番組が組まれていますし、それも含めて「箱根駅伝」なんでしょうね。

箱根駅伝が巨大化するに従って、箱根批判も出て来ています。大学生を過剰に持ち上げすぎだとか、エピソードを誇張しすぎだとか色々。マラソンを弱くしたのは箱根駅伝だなんて主張もあります。でも、僕はマスコミが作る箱根駅伝は悪いと思っていません。マスコミに取り上げられる選手は「選手としてのバリュー」があり、注目を浴びるということはそれだけのニーズがあるということ。お正月に一生懸命走っていた選手の生の声を聞いてみたいと思っている人がたくさんいるといるからこそ取り上げられるのであって、そこを否定すると見るスポーツ自体を否定してしまうことになりかねないなと思っています。

テレビ中継は視聴者ファーストで、選手ファーストにはなりません。これも冷静に考えれば当然のこと。事実を曲げない演出であれば、お涙頂戴的な演出はテレビが当たり前に行う演出の一つです。それに敏感なアレルギー反応を示しすぎることは「テレビというマスメディア」と「箱根駅伝というスポーツ」の理論をごちゃ混ぜにして話し過ぎているよう気がします。二つの性格が異なるものがお互いの特徴を生かし合って、箱根駅伝というコンテンツが成長しています。長所短所があて当然ですし、それを理解した上で「スポーツとしての箱根駅伝」と「エンターテイメントとしての箱根駅伝」で話をしていくのが本来のあるべき姿なんじゃないですかね。

僕は選手として一生懸命箱根駅伝を目指し、夢破れました。箱根駅伝に憧れたのは「エンターテイメント」としての箱根駅伝に憧れたからです。でも実際には「スポーツ」としての箱根駅伝で必死に頑張りました。結果的にその両方の箱根駅伝を垣間見ることができました。僕はメディアに取り上げられるほど選手としてのバリューはありませんでしたが、箱根駅伝が持つ魅力も魔力も語れます。いや、語りたい(笑)

そんなことを考えながら自分の振り返りブログを書いていたらこんなに長くなっちゃいましたね。ゆっくり書こうと割り切ってからずいぶん更新のスピードが鈍ってしまったなと反省していますが、流行りすたりに左右されず、自分の思いを言語化していきたいと思います。

■学連選抜日記

予選会が終わってから僕はたくさん努力しました。ただ、その努力は果たして正しかったのかというと正しくなかったと思います。いや、言い切れます。未熟だったなと思う気持ちもあるし、それを後悔しても今はもうその時間は戻ってこないんですよね

ただ、筑波大学の代表として箱根駅伝を近くで見られる機会を与えられたからこそ、ただ走るだけとか、自分の名誉欲だけで走りたいと願っちゃダメだなと思っていました。僕がこの学連選抜チームのなかでやりたかったことは3つ

・箱根駅伝に直接関わることでしか得られない感覚を知ること
・それをチームに持ち帰ってチームに還元すること
・箱根駅伝の舞台で筑波大学の存在感を示すこと

走ることだけでは次に繋がらない。そして、「個人の感想」でこの経験を終えてしまうのはもったいないし本来の学連選抜チームの趣旨ではないと思って「学連選抜日記」を始めました。学連選抜チームの中でどういったことを感じ、自分は何を考え、これからにどう繋げていきたいかをまとめてミーティングの時に、みんなに配ってその想いを共有するもの。当時はSNSなんて全く普及していませんでしたし、全て紙ベースで作りましたが、僕ができることを考えた結果の日記です。

読み返してみると当時の葛藤や不安が不器用な文章で書かれていました。箱根駅伝が終わってチームが解散するまで10本の日記になっていて、なんだか懐かしかったです。今も昔も文字に残すことの大切さを感じていたんでしょうね。変わってないなぁ。。。

キャプテンになってから、ミーティングのたびにチーム報を作っていました。何かよいネーミングがないかと考えてつけた名前が「Step by Step」。一歩づついこうよという意味を込めてます。

■現実と向き合って

メンバー選考の舞台となる記録挑戦競技会が開かれたのは12月初旬のことでした。前年にそーめーさんが苦しんでいた選考レース。翌年に自分がその立場になって、いかに大変なのかを実感させられました。予選会が終わってから自分がとっていた行動はそもそもめちゃくちゃでしたし、走れっこない。今振り返ればよーく分かるのですが、当時はそれに気づけなかったし、指摘してくれる環境も作れませんでした。

そんな中での実際の走りはもちろん「最悪」でした。前回も書いた通り、完全に自分がやるべきことを誤って自滅。仲間の力をもっと借りればいいものを、なぜあんなにツッパってたんだろうと思うくらい孤軍奮闘していました。いや、「奮闘」ですらないです。「暴走」でしたね。

動かない体を無理やり動かしましたが、気持ちで押し切るには限界がありました。レースの序盤であっという間に集団から離れてしまいました。挙げ句の果てには、先頭集集団に周回遅れにされてしまう始末。情けなかったです。穴があったら入りたい、レースを投げ出したいとすら思いました。

当時の選考レースが行われた場所は旧国立競技場。「2020」に向けて今は建替工事中ですが、「1964」の頃はもちろん最新の建築物。すり鉢状になった観客席は広い競技場をより広く感じさせるのですが、観客の声援が混じると圧迫感を作り出す不思議な感覚がありました。

選考レースはあくまで記録会なので、観客が見にくるようなものではなく、観覧席にいるのはほぼ関係者。まばらに人がポツンポツンといるだけなので、いつもなら広く感じる競技場が、その日は自分が惨めすぎてスタジアムに吸い込まれそうな怖さがありました。大事な大事なメンバー選考レースは大学ワースト記録。ゴール後、頭が真っ白になってことばがうまく出てきませんでした。

レースの後に学連選抜チームのミーティングがありました。このレースを踏まえてメンバーを決めるということだったので、当然誰がどこを走るか?という話になります。普通のチームであれば僕の走りっぷりは即メンバー落ち。箱根駅伝1ヶ月前で調子をこんなに落として走れないなんて論外ですからね。

「天下の公道を走るのが箱根駅伝だから、恥ずかしい走りはできない」
「学連選抜チームこそ繰り上げになってはいけないチーム」
「今日うまく走れなかった者は何かアクシデントがあったんじゃないかというくらい酷かった」
「サッカーだとイエローカード5枚くらいの走りだった」

名指しこそされませんでしたが、自分のことを言われているのはもちろんわかりました。直接叱責されなかったのは、よそ様のチームの選手だからこその優しさだったのかもしれません。

ただ、当時の監督の方針は「10区間全て違う大学が走って箱根をたくさんのチームに経験してほしい」というものだったので、僕が走る可能性が首の皮一枚残りました。2週間後にチーム合宿で25km走を行うので、その結果をみて最終的にメンバーを決めるということが最後に告げられてミーティングは解散。

もう現実を素直に受け入れるしかなく、そこからは筑波大の仲間の力を借りて練習しました。もっと早くにそういう行動を取れていたらよかったんですけどね。ほんとダメです。

もう一人でツッパらない。そして今の自分を受け入れてやれることをやる。合宿までの2週間は苦しかったです。

■衝突

僕自身はそんなにイライラするようなタイプじゃないのですが、その当時はかなりイライラしていたと思います。そしてケイと衝突。大喧嘩になって大泣きしました。

「コータの走りには心がない」

ケイから言われたきつい一言でした。心当たりがあったから尚更でしょうね。キャプテンとしてこうあらねばならないとか、箱根に出るために頑張らなきゃいけないとか、考えすぎていて走りに集中できていないと言われました。的を射すぎていて何も言えません。ただ、誰かに叱って欲しかったのかな。それに対しての反論がでるわけでもなく、言われて逆にスッキリしました。

「コータは一人じゃない」

そして、もう一言。これも本当によく僕のことを見ていたと思います。口では感謝と言いながらも、行動が伴っていませんでした。心のどこかで「どうせあなたには今の自分の苦しみがわからないでしょ」と思っていたんでしょうね。「自分が!自分で!自分は!…」という風に主語は常に一人称。それが良くなかったということは痛いほどわかっていましたが、受け入れて行動を変えるには誰かの言葉の力が必要でした。

衝突は決して悪いものじゃありません。遠慮せずに言ってくれる仲間がいたからこそ、その時僕はちょっとだけ変われたんじゃないかなと思っています。

ただ、合宿の25km走はやっぱり走れませんでした。後半の5kmでビルドアップした直後に集団からズルズルと離されてしまいました。

メンバー落ち。監督与えてくれたたくさんのチャンスを僕は生かすことができませんでした。

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