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3.11〜私たちそれぞれの記憶〜 2人目

来年、2011年3月11日におきた東日本大震災から10年が経ちます。

みなさんは、あの日のことを覚えていますか?

突如訪れる自然災害。幸せな日常が一瞬にして消えたあの日。私たちも、東北に住んでいました。そして、今ここに立っています。

今回から3話にわたって、私たちMIYAUMAスタッフの中から3人のスタッフに、東日本大震災の日のことを書いていただきました。

それでは2人目の3.11〜私たちそれぞれの記憶〜です。

1人目の記事はこちら💁‍♀️「3.11〜私たちそれぞれの記憶〜」

【9年前の私  】

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私は、宮城県仙台市泉区に住んでいました。(山側)
当時の私は、中学1年生。2011年4月に2年生になる年でした。習い事には一生懸命で、勉強は下から数えたほうが早いレベルw

そんな私には、兄弟はいません。専業主婦の母親と再婚したばかりの血の繋がらない父親の3人で生活していました。この頃は、反抗期ということもあり、血の繋がらない父親を嫌い、素っ気ない態度をとっては母に叱られる日々が続いていました。

2011年2月末ごろ。
緊急地震速報は鳴らなかったが、1週間に2回以上もの地震が来たことを覚えています。初めのうちは「すぐにおさまる」なんて思っていました。ですが、日が経つに連れ、どんどん地震の回数は増えていったんです。私は、この時から胸騒ぎがしていました。この頃書いていた日記には、「いつか、何かが爆発する」そう書いてありました。

学校では、もうすぐ卒業する3年生の教室の飾り付けや色紙を書くのに大忙し。ですが、そんな中である助言が学校中で大流行しました。それが、「日本は3月に大きな災いがおこる」というような内容です。人によっては、「日本沈没」なんていう人もいました。

「どうせ、嘘だろ」

クラスの誰もが信じなかった。

あんなことがおこるなんて…

【あの日】

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2011年3月11日 天気は曇り

分厚い雲に覆われ、不気味な空が広がっていたこの日は、朝から学校へ。
本来なら、春休みでおうちで過ごすのですが、私の通っていた学校は2日後に卒業式を控えていました。そのため、卒業する3年生を除いた在校生が集められ、卒業式の最終準備で学校に登校。ですが、一応春休みということで、やることが終わった生徒は帰れることになっていました。

中学の校舎は、4階建て。実際、卒業式で使われるのは、下駄箱のある1階と式のある体育館、3年生の教室がある2階だけでした。大人数でやるほどの広さではありません。
その中でも私は、体育館で3年生や保護者が座るパイプ椅子を並べる係…だったのですが、前の日に3年生たちが自分たちで出したようで、仕事がなくなってしまいました。流石に、このまま帰るわけにはいかないと思い、体育館以外の場所に手伝い、なんとかサボりというレッテルは貼られずに済みました。

最終的に、私が仕事を終わらせたのは13時ごろ。
やることが終われば帰れる。ですが、私は帰りませんでした。
理由は、父親を認めるようにと母親がうるさかったからです。なので、私はクラスメイトと4人で、4階の卒業式では使わない1年生の教室と廊下を走り回って遊んでいました。(※良い子は、マネしないように!)

ジャンケンで鬼を決めて、残り3人は走り回る。今思えば、おバカだなぁと思います。そうやって走り回っている中、窓ガラスがカタカタと振動しているのに気づき、走るのをやめた。いつものように地震が起きました。私たちは、

「あー、またか」

そう思ったんです。そして、地震はピタリっと止まり、遊ぼうとしていた時

ガタガタガタガタガタガタガタガタ

今までにないほどの、窓ガラスの振動。グラっと地面が傾く。

「これは、まずい」

本能的にそう感じて、廊下にいた私たちは教室に入り、机の下に潜り込んだ。机をどんなに押さえ込んでも、揺れのせいでいうことを効かない。私やクラスメイトが潜り込んだ机以外は、机同士がぶつかり合いどんどん倒れていく。
そして、あまりの揺れの激しさに、廊下の窓ガラスが次々と割れたいった。割れた大きなガラスの破片が床に突き刺さる。刺さった場所は、さっきまで私が立っていた場所でした。

「あそこでしゃがみこんでいたら、きっと今頃…」

その時の私の顔はきっと、血の気が引いたような青白い顔をしていたと思います。

揺れはおさまることを知らず、どんどん教室は荒れていきました。散らばる教科書やプリント。ふと、教室の窓側を振り向くと

「え………」

私やクラスメイトは、一瞬理解が出来なかった。目の前には、見えるはずもない校庭が覗くように見えたからです。私は、確かに教室の床にしゃがんでいて、普通なら空が見えるはず。でも、実際に見えたのは校庭。見えるはずがない光景にクラスメイトの1人が悲鳴をあげました。私は、「落ち着かなければ」と思い、揺れがおさまるまで、ひたすら机にしがみついていました。

揺れが落ち着き始めると、先生たちが生徒を安全な場所へ連れ行くための誘導を始めました。4階にいた私たちは、階段から「だれか残っていますかーー!」という先生の声を聞き、「先生ーー!」と大きな声を上げた。 

先生の顔を見るなり、クラスメイトの1人が泣き崩れた。私もさっき見た驚きの光景に、手足が震えていました。ですが、1番強い本震が来た後も、止まることなく余震が続いていて、いつなにが起きてもおかしくはない状況でした。「震えていようが関係ない。早く安全な場所に」そう思い足を動かした。そして、やっとの思いで私たちは階段を降りて在校生たちと合流できました。

在校生が集められたのは、1階の下駄箱前の広場。本来なら、避難訓練のように靴は履き替えず校庭に出るのですが、最悪なことに外は雪が降っていました。校舎内がら見ていても、風で流される雪のせいで全く前が見えない状況だったんです。

本震から1時間近く経った頃、先生たちは生徒を家へ帰らせることを決断しました。ですが、まだまだ余震は続いていたため、家が近いもの同士を集め、先生同伴のもとで帰宅する。

帰る時、靴を履き替え、荷物を持って学校の校門を出た。ふと後ろを振り返ると、校舎にかけられている時計は、14時46分を指したまま止まっていました。

【震災がおきてからの生活】

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私の住んでいる地域は、ガス・水道・電気全てのライフラインが止まってしまいました。この全てが復旧したのは、震災から3週間後のことです。

家は、賃貸でした。風呂場の床と壁のタイルは亀裂が入り、かなり剥がれ落ちてました。また、あちらこちらの壁に亀裂が入っていて、地震の度にポロポロと何かが落ちてきてる状態。家が崩れるのではないかと心配しました。

震災が起きてからの生活では、私の家は食料には困りませんでした。というのも、ご近所さんがいろいろ分けてくださったおかげです。ですが、飲み水がなかったため、給水車が来た時にはペットボトルを持ってもらいに行っていました。

震災があった当日も、夜遅くに給水車が来てくれました。外灯も付いていない夜道を、懐中電灯の光だけを頼りに歩く。重たい大切な水を両手に抱えながら、上を見上げました。そこには、数え切れないほど美しい星空が広がっていたのを、今でも鮮明に覚えています。とても綺麗でした。ですが、それと同時に、私は「怖い」とも思ったんです。

その後、何度も何度も昼夜関係なく、携帯の地震速報と地震が続きました。3月の寒い日に、毛布に潜るように眠る。地震の度に飛び起きて、外に逃げれるように準備する。心休まる日がありませんでした。

率直に、苦しかった。

【3.11前と今】

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中学生だったあの頃から、もう10年が経とうとしています。

当時は、「大丈夫、元の生活にきっと戻れる」そう思っていました。震災から1年が経ち、私の暮らしは震災前と同じ生活に戻れました。ですが、私の心の傷は震災前には戻りませんでした。それはきっと、震災を受けたほぼ全ての人に当てはまるでしょう。

私は今も地震速報の音が鳴ると、走ってドアというドアを開けにいきます。
(閉じ込められないように)
学校の避難訓練でさえも、サイレンの音が怖くて参加できませんでした。
また、自分よりも背の高い家具を置くのは怖くて、未だに冷蔵庫以外は低いものばかり。水辺のそばには住みたくないなど、トラウマのようになってしまいました。

どんなに年月が経とうとも、この傷は誰にも癒すことができません。忘れることもできません。生活は、元に戻すことができます。ですが、心はまだあの日にとらわれているのかもしれません。

現在の私は23歳になりました。そして、2人の子どもの母です。
守るものができて、やはり思い浮かぶのは震災のこと。「今、あの時と同じようなことがあれば、私がこの子たちを守らなければ」そう強く思います。私自身は、まだ地震が怖いです。でも、それでいいと思っています。怖いからこそ、考えて備えることができる。

未来を託された中学生の私が大人になって、新たな命を授かった。
きっとこの先、2011年3月11日の出来事を忘れることはないでしょう。だからこそ、新たな未来へ進む子どもたちに、語り・受け継いで欲しい。そして、どんなに苦しい時も、立ち向かう勇気と希望を捨てない限り道はあるのだと、この東北を見て感じて欲しい。そう強く思っています。


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