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ビジネスでなく何かする。「コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる」。

「コミュニティ」に関する思索、前の投稿の続き。

以前、山崎亮さんの他の本を読んだことがあった。コミュニティを考えるなら山崎さんを外して考えられない気がして、手に取ったら、もう9年以上前の本だった。

「はじめに」に、「コミュニティデザイン」という言葉の歴史が説明されている。子どものころから家の近くに「コミュニティセンター」があった理由も書かれていた。

この本に、地縁だけのコミュニティはほとんど出てきていない。例えば有馬富士公園のプロジェクトでは、凧揚げをするコミュニティ、水辺の生き物を観察するコミュニティなどが出てくる。「市民活動団体」とも呼ばれるような団体だが、コミュニティと呼ぶのは、その団体の人のつながりに着目しているからだろう。
そのコミュニティにいるのは、有馬富士公園のプロジェクトより前から自主的にそのコミュニティに参加している人たちだ。もともとのコミュニティへの参加の経緯については書いていない。ただし、ノーコミュニティからの変化を考えるなら、その点はとても重要だ。

他のプロジェクトでは個人の参加の経緯が書いてあるものもある。堺市環濠地区でのフィールドワークは、もともと日本造園学会関西支部のワークショップであり、造園関係の仕事についていて関心のある人が応募したのだろうと想像がつく。マルヤガーデンズでは、団体に属していないが何かしたい個人を「カルティベータ―」として募集し、レポーターなどの活動をする中でその人たちの新たなコミュニティができたという。

ここでいうコミュニティは、自主的に参加するということが一つのポイントなのではと思う。そして、ほとんど非営利のような形で継続的に活動が行われていることもポイントだ。
それはボランティアとも呼べるだろうが、山崎さんはあえてその言葉を使わない。

その活動はスキーやテニスを楽しむのと同じであり、「まちのために活動してあげている」のではなく「まちを使って楽しませてもらっている」と思えるようなものであるのが理想的だ。自分たちで少しずつお金を出し合ってでも楽しみたいと思えるような活動であり、結果的にまちの人たちから感謝されてさらに楽しくなるような活動。

楽しませてもらっている、といえども、人を集めてプログラムを実施するようなことになれば苦労も多い。事前に調べたり、小道具や資料をつくったり、役割分担をして打ち合わせたり、練習したり。

それでも山崎さんは、それぞれの場を、人々のそうした自主的な精神をもとにしてデザインする。その精神を信じている、とも言えるかもしれない。
Studio-Lさん自身も、その地域での取り組みの最初のほうでは特に、非営利で動いていることも多いと聞いたことがあるような。

コミュニティというのは、ビジネスではなく何かするような営みのある人々の集まり、ということなのだろうか。
この本に出てくるのは、地域で実際に集まって活動するコミュニティばかりだが、オンラインのコミュニティでも同様のことが言えるかもしれない。お金を払って参加するオンラインサロンで、人の投稿にコメントをつけたり、何かを調べて投稿したりするのも、ビジネスではなくしていることだろう。今後のビジネス展開を考えてやる場合もあると思うが、みんなが100%そうだとは言えないような気が。

ただ、もし日々の生活で余裕がなかったら、コミュニティには参加しづらいかもしれない。自分のお金を払ってでもやる、と思えなかったり、仕事や家族のことなどで時間をつくれなかったり。コミュニティごとに状況は違うだろうが、参加する人の層は自ずと限られる。

私が少ない時間を使って、「楽しませてもらっている」と言いながら、誰かのために何かできるコミュニティはどういうものなのだろうか。
バンドのFacebook担当は、自分にとって何かできる機会だったかもしれない。でもそれ以外では、あまりそういうことをしてこなかったような気がする。自分にとって、誰かのために何かすることが当たり前ではないから、自主的な精神をもとに成り立つ場を、少し不確かに感じるのかもしれない。

自分は自分のことばかり考えて、自分のやりたいことを追い求めて生きてきた。だから今、ノーコミュニティなのかもしれない。
これからそれを取り戻すことなんてできるのだろうか。できたとしても、とても長い時間がかかるのかもしれない。

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