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七夕に香る

みるみるうちに空を覆った雲から降り注ぎ始めた雨は,どんどんと粒を大きくして,水を吸った制服のスカートは重みを増していく。

7月も1週目を終えようとしているとは言え,まだ梅雨明けは宣言されていないのだから折りたたみ傘くらい常備しておけばよかったと反省したものの,この雨脚では太刀打ちできたか怪しいところかと溜息をついた。

とりあえずの雨宿りに駆け込んだ公園の屋根付きベンチから出るにはまだ時間がかかりそうだ。

両親はまだ仕事中で,唯一迎えを期待できそうな一つ年上の恋人には最近連絡するのを避けている。

このままではよくないことは自分でも分かっていた。


「どうしようかな。」


口から零れ落ちた独り言は雨音に溶け,落ちた目線は雨粒に叩かれる水溜まりをただ見つめる。


「迎えに来てって連絡すればいいじゃん。」


背後から突然聞こえた声にびくりと肩を揺らす。

勢いよく振り返り,雨粒が滴る傘を畳みながら同じ屋根の下に滑り込んできた見知った顔を視界に捉えると体の力が抜けた。


「びっくりさせないで。」


「ごめん。けど傘がないなら電話してくれればいいのに。」


「ごめん。」


また水溜まりに視線を落とすと,視界に入った自身の制服と振り返った時に見えた彼の私服を比較して知らぬ間に彼が随分大人になってしまったように感じられた。

久々に彼に会えた喜びと連絡を避けているという後ろめたさが交錯して彼の目を見ることができず,いつもは心地よさすらあるはずの短い沈黙にも耐えかねて,何か言わねばとぐるぐると考えた挙句,結局絞り出せたのは2度目の謝罪だった。


「…ごめん。」


「それは何のごめん?」


彼は困ったような声音で続ける。


「LINEになかなか返事してくれないこと?もうそろそろ暗くなる時間なのに雨の中で迎えも呼ばずにひとりでぼーっとしてたこと?それとも県外の大学に行きたいってこと?」


はじかれたように顔を上げた私に彼は可笑しそうに笑った。



「…何で。」



知っているのかと続けた声は掠れて消えた。



「もう2年,ずっと見てるから。」



いつ相談してくれるか待っていたと拗ねたように眉を下げる彼は、私の知っているいつもの彼で鼻の奥がツンとした。

だってと絞り出した声が震えているのが自分でも分かる。


「付き合い始めてからもう1年も経つし。」


「うん。」


「先輩が学校にいないくらいどうってことないと思ってた。」


「うん。」


「でもたった3か月でこんなに寂しい。」


「うん。」


「大学生になったら,またずっと一緒にいるつもりで。」


「うん。」


「それまでだから何とか頑張ろうと思ってたのに。」


「うん。」


「でもやりたいことが見つかって。」


「うん。」


「でもこれ以上は耐えられないかもしれない。」


「うん。」


「何を選んでも後悔する気がして。」


「うん。」


「どうしていいか分からなくなって言えなかった。」


「そっか。」


柔らかい相槌に誘われるように心を吐露していく。

整理しきれないままに吐き出した言葉が止まったところで我慢しきれずに瞳から雫が滑り落ちた。



「俺も寂しいよ。」



彼は,私の頬を親指でなぞりながらそれでもと言う。


「行きたいところに行ってやりたいことをやりな。」


ぽろぽろと泣き始めた私の背中をそっとさする彼から,どうせなら好きな匂いでいたいと私に選ばせてくれた香水の香りが漂い,私の涙は勢いを増した。


大丈夫,俺たちは織姫と彦星よりは会えるよ。
雨が降ったってちゃんと会いに行くし,電話だって,LINEだってできるしさ。


そう言ってくれた彼と寄り添った私の七夕の記憶は,雨と柑橘と涙の香り。






あとひとつ,どんなお話にしようかなあ。