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夏祭りに香る

ベランダから差し込む西日が和らぎ,空がオレンジから薄藍に染まっていく。

近所で開催されているらしい夏祭りもそろそろ一番賑わう時間を迎える頃合いなのか,マンションの前の通りは普段の静けさを忘れたように行き交う人々の華やいだ声を響かせている。

せっかく効かせたエアコンの冷気を逃すのが惜しくて窓を開けたりはしないけれど,ベランダから通りを覗けばきっと少年少女たちのカラフルな浴衣姿に若い夏を感じることができるだろう。

社会人となって数年,少しばかり若さを失った私と彼はそんな明るいざわめきをBGMに宅配されてきたばかりの食事をテーブルに黙々と並べていく。

二人とも仕事から帰宅するなりシャワーで汗を流し,もう後は食事をしてだらけるだけでいいように準備を万端整え,彼らのように軽やかに夏祭りに繰り出す予定は全くない。

二人分の箸を並べ終えると,最後に彼が冷蔵庫から冷えた缶を2本取り出して1本を私に差し出した。

プルタブを引くご褒美の音とともに手元の缶をぶつけて,今日もお疲れ様と言い合う。

化粧を落とし,半分濡れたままの髪を適当にまとめ,くたくたの部屋着を着て,ビールを缶のまま呷りながら出来合いの料理をつつき,テレビを垂れ流してくだらないことを話す時間には付き合いたての頃のような胸の高鳴りはないけれど,一緒に過ごしてきた時間の分だけ積み重ねてきた安心感と心地よさがかけがえのないものとして確かに存在している。


料理をあらかた食べ終え,それでも少しばかり飲み足りないと3本目の缶のプルタブを引いた頃,外で大きな音が鳴り始めた。


「花火上がり始めたね。この部屋から見えないかな。」


出かけるのは億劫でも花火くらいは見たいという彼がよっこらせと立ち上がってカーテンの隙間から空を仰ぐ。


「あ,案外見えるよ。家から花火なんて贅沢だな。」


せっかくだからという彼の言葉に誘われて開けたばかりのビールの缶を握りしめたまま,ベランダに並んで空に散る火花と腹に響く大きな音をただ静かに楽しむ。

夜になっても冷え切らない空気が頬を撫で額がじんわりと汗ばみ始めた頃,最後の見せ場とばかりに色とりどりの光が次々と夜空を彩っていく。

生温い風が運んでくる火薬の匂いに,まだ高校生だったあの日,初めて彼に誘われて浴衣を着て出かけた夏祭りの懐かしい記憶が蘇った。

ただの先輩と後輩だった私たちの関係に新しい名前がついたあのときもこうして花火が上がっていて,彼が緊張した面持ちで発した一番大事な一言が最後に上がった一際大きな花火の音にかき消されたことを思い出して口元が緩む。

よく聞こえなかったと首を傾げた私に,恥ずかしいような情けないような何とも言えない顔をした彼のことをたぶん私はずっと忘れないだろう。


最後に上がった大輪の火花が散り切って夜空が沈黙を取り戻したとき,何の前触れもなく彼がぽつりと言った。


「結婚しようか。」


あまりに唐突な彼の言葉に勢いよく彼の顔を見上げるけれど,まるで何も起きていないかのように至って平然としている。

自然すぎる彼の様子に,思っていたよりも彼に酔いが回っていたかもしくは空耳を疑う私の心を読んだように彼は続けた。


「酔うほど飲んでないし,俺は結婚を申し込んだよ。」


今日はちゃんと聞こえたでしょと悪戯に笑う彼を呆然と見つめるしかできない私は,たぶんだいぶ情けない顔をしていると思う。


「本当はちょっといいレストランでとか記念日にとかいろいろ考えていたんだけど,急に高校生の時のこと思い出してさ。今がいいなって思っちゃったんだよね。」


指輪の用意もないし全然ロマンチックじゃなくてごめんなんだけどさ,俺と家族になるのは嫌かい?


何も言わない私の顔を覗き込みながら,おどけて首を傾げた彼の動きに合わせて揺れたセットされていない素の髪からは半年前からお揃いになったシャンプーの香りがする。

いつかはと願っていたプロポーズは想像とは違っていたけれど,これが一番私たちらしいかもしれないと思った。




幸せをまたひとつ重ねた夏祭りの記憶は,花火とアルコールとシャンプーの香り。





コンプリート!